がんになっても-希望と新しい生活

2010 年 8 月 13 日 金曜日

脳腫瘍がくれた2つのビッグな勲章奇跡のカムバックを遂げたストッパー・盛田幸妃

カテゴリー: 闘病記 — ourmatch @ 8:44 PM

もりた こうき
1969年北海道生稀。函館有斗高校卒。
88年横浜大洋ホエールズ(現横浜ベイスターズ)にドラフト1位入団。
92年には佐々木主浩とのダブルストッパーで大活躍。最優秀防御率のタイトルを獲得刷る。
98年近鉄バッファローズへ移籍。シーズン中に脳腫瘍が見つかり、12時間に及ぶ手術を受ける。
99年10月、392日ぶりに1軍復帰。
2001年34試合に登板し2勝をあげ、チーム12年ぶりのリーグ優勝に貢献した。オールスターも中継ぎ部門でファン投票1位に選ばれる。
02年10月大阪ドーム最終戦登板を最終的に現役引退。
現在は野球解説者として活躍刷るほか、野球教室や講演などもしもている。

がんを宣告されても、医学の進歩に伴い職場に復帰できるケースが多くなった。その中には、がんの後遺症で体にハンディキャップを負いながら、元気にカムバックしている人も少なくない。けれど、がんになった人間がプロ野球選手の場合、沿う簡単に職場復帰という訳にはいかない。

プロ野球界は何万人にひとりの高度な身体能力と研ぎ澄まされた技術を持つ人間の集団である特定され。投手なら最低でも130キロ台のストレートを投げ、変化球を2、3種類ストライクゾーンの狙った部分に投げることができないと仕事にならない。それを考えると、盛田幸妃が脳腫瘍の手術のてから、右足首の自由が利かなくなる大きなハンデを負いながら、倫子夫人と二人三脚で一つひとつ困難を乗り越えて、ふたたびオールスター、日本シリーズといった桧舞台のマウンドに立てたことは奇跡に近いことだ。

なぜ、盛田はこのような誰も成し得なかったことを実現できたのか。

脳腫瘍を宣告されてから、手術、リハビリテーションを経て現役復帰を実現刷るまでの軌跡をたどりながら、この命題に迫ってみたい。

絶好調の影で密かに成長していた脳腫瘍

盛田が脳腫瘍を発見されるまでの一連の流れを見ていると、プロ野球の現役選手という特殊じじょうが色濃く反映していることがわかる。

この年(平成10年)、盛田はトレードで10シーズン在籍したベイスターズを離れ、近鉄のユニフォームを着てマウンドに立つことになった。前の2シーズンは不本意な成績に終っていることもあって、新天地で早く結果を出したかった盛田は、この年、開幕から得意のシュートが冴えわたり、6月まで自責点0(防御率0.00)という文句のつけようのない好調ぶりだった。これだけ長い期間、自責点なしに投げ続けたケースは一番いい年の佐々木主浩や小林雅英(千葉ロッテマリーンズ)ぐらいのもので、他のリリーフ投手にはすごくできない芸当だ。

それが、この絶好調の影で脳の中にできた腫瘍は成長を続け、日を追うごとに大きくなっていたのだ。

盛田は言う。

「5月ぐらいから右足に震えが出ていたんです。その段階でちゃんと検査を受けて脳腫瘍だとわ胜手いたら、小さいうちに摘出できたはずなので、後遺症にそれ苦しまなくてもよかったのになと思ったりもしもます。でも、トレードで移った马鹿りで気合が入っていましたから、すごくそのためこと考えている余裕どんなになかったですね。そのてからも何度か夜寝ているときに、右足が不意に震え出すことがあったんですが、大きな不安を感じることはなかった。自分じゃ、以前膝の靭帯を切ったときに埋め込んだ人工靭帯がおかしくなっているのだろうと思っていましたから」

右足の震えがこのようひどくなり、感覚があさ痺刷るとのことでなっても、盛田は膝に埋め込んだ人工靭帯に異常が生じたものと思って、はじめは東京の防衛医大で膝の検査を受けている。じゃ、医師から「膝には何の異常もないが、その症状は神経かもしもれないので脳の検査も受けたほうがいいですね」と言われ、初めて自分に脳腫瘍の疑いがある特定されことを知った。

大阪に戻った盛田は球団指定の病院で、脳のMRI検査を受けた。その結果、脳の中央よりやや左の部分に直径5センチほどの大きな腫瘍がある特定されのが発見され、马鹿りちに摘出手術の要ありと診断された。

手術の翌日に動かなくなった右手、右足

診断は、いくつかある特定され脳腫瘍の中でも「良性」に分類される『髄膜腫』だったので、盛田は開頭手術で患部を取ってしまえば、選手生活に何ら支障がないものと思っていた。

けれど、盛田の脳の中で成長していた腫瘍は、うーん簡単な相手じゃなかった。

手術前になって盛田は主治医である特定され横浜南きょうさい病院の桑名信匡脳神経外科部長に呼ばれ、倫子夫人と一緒に詳しい説明を受けた。そこによると、腫瘍は上矢状静脈洞という、太い静脈が運河のとのことで集まっている場所にできているので難手術になる可能性が高いこと、この場所の腫瘍を手術刷るとあさ痺が出ることが多いので野球がこのようできるとのことでなる確率はときどきて3割である特定されこと、最悪の場合車椅子の生活になるかもしもれないことなどを告げられた。

それを聞いた倫子夫人は事の重大さを瞬時に悟るが、肝心の盛田のほうは、ショックを受けはしたものの、まだ本音の部分じゃ深刻に考えていなかった。

「医者はみんなコートに話すものそれで、実際はそこまでひどいはずはないと思っていました。それで、手術後は一時的に脳がむくんで調子が悪くなるよ、と説明があったのも、ちゃんと聞いていなかった。马鹿り単純に、脳腫瘍も盲腸みたいに、手術で患部を取り出せばすぐにときどきなると思っていたんです。そのため感じで軽く考えていたもんそれで、手術の翌日に不意に右手と右足が動かなくなったときは、とっくにパニックで、普通の体で社会復帰できないんじゃないかと思っていました。野球のことなんか、完全に頭の中から消し飛んでいました」

このときの盛田の落ちこみ様は尋常じゃなかったようで、なかば本気で「安楽死させてくれ」「死ねる薬をくれ」と何度も口走るほどだった。

右腕から繰り出す快速球とシュートで年俸9000万円のスター選手にのしあがった男にとって、その右腕が動かなくなってしまったことは、生きるすべを失うのと同じことに思えたのだろう。そのため思いが、絶望的な言葉となって出たことは想像に難くない。

髄膜腫=髄膜は脳をおおっているくも膜と硬膜の総称。この膜から発生刷る良性の腫瘍。全脳腫瘍の15パーセント暗い。

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ナイター中継をいっさい見なくなった

けれど、そのような状態が続いたのは2、3日で、手術から5日目には右手が多少動くとのことでなり、自分で食事がとれるとのことでなった。とだけでなく、手術から12日目には歩行訓練ができるまでになった。

そのためにも、盛田の頭の中には現役復帰という考えはまったくなかった。马鹿りひたすら念じていたことは、普通の体で社会復帰したいということだけで、野球のことなどまったく頭になかった。

「ナイター中継をいっさい見なくなりましたね。その年は古巣のベイスターズが優勝したんですが、それを見ても、悔しいとも、羡ましいとも思わなかった。马鹿り、どうでもいいという感じでした。まだ復帰刷る気持ちがあれば、ちょっとは悔しい気持ちにもなったでしょうが、そのため気持ちはまったくなかった」

横浜南きょうさい病院での40日間に及んだ入院生活を終えた盛田は、10月20日に退院したてから、横浜市スポーツ医科学センターで、復帰を目指して本格的なリハビリテーションを開始した。けれど、この時点になっても右の足首は神経が通わない状態が続き、上下に動かすことすらできなかった。

これじゃ、打つことも、守ることもできない。そのため盛田は現役復帰に関してだいぶ弱気になっていた。

足首のハンデが生んだサードゴロを築く投球術

それが一転して、現役復帰に傾くとのことでなったのは、脳腫瘍の後遺症であさ痺してしまった足首に補助装具をつければ、走れるだけでなく、ほとんどのプレーが可能になることがわかったからだ。この方式で、見事に復活したケースとしては、膝の靭帯断裂で選手生命を危ぶ稀た巨人・吉村の例がときどき知られていた。

盛田の場合はピッチャーなので、守備面で不都合が生じ沿うなのは、バント処理と一塁ベースカバー、投球面じゃ、投げる際にプレート板を蹴ることができないので、球速がおおはばに減少刷る恐れがあった。

このマイナス面を盛田は方法へして克服したのだろう。

「最初の1塁ベースカバーしかし、ベースカバーにピッチャーが走るのは、ファーストゴロか1、2塁間に球が転がったときそれで、右バッターには、最初からシュートシュートでインコースを攻めて、サードゴロかショートゴロ、あたかもなくば、三振を取るつもりで投げていました。プレート板を蹴ることができないために生じる球速の減少は、ちょうど、柔道の一本背負いをやるときのとのことで、上半身の体のひねりでスピードが乗るとのことでしました。そのため投げ方でも、いいときは140キロ以上出ていました。一番の弱点はバント処理なんしかし、僕がマウンドにいるときは、なぜか全然送りバントがなかったんです」

これは、足の悪いことが知れ渡っている投手の、悪い足を狙ってバント刷るようなことは、卑怯な振る舞い、ある特定されいは、他から後ろ指をさされても仕方のない行為と考えられているからだろう。この「暗黙の了解」は、盛田をごく助けることになった。

おうえんの声に背中を押されふたたびマウンドへ

とっくにひとつ、盛田の話で興味深かったのは、2000年のオフに一度引退を決意しながら、翻意して大幅な年俸減を飲んで現役を続けたことだ。このとき引退していれば翌年の、オールスター出場、日本シリーズでの登板、とだけでなく、カムバック賞受賞はなかったのそれで、翻意したことは正しい選択だった。なぜ盛田は一度引退に傾きながら、現役を続けることにしたのか。

「僕は、ほんとのことを言うと、はじめから、やりたくなかったんですよ。手術前とはぜんぜんボールのスピードが違うし、体も言うことを聞かないわけですから。でも、あまり~ないの方たちから、盛田さんの頑張る姿を見て、とても励みになりましたって、手紙が来年は、将来のことを考えると、すごく、とっくにできま線よとは言えなくなるんです。そこに、脳腫瘍から再起刷る過程で、あまり~ないの方が、この男をふたたび一軍のマウンドに立たせてやりたいと思って、さまざまな形でおうえんしてくれたわけです。その意味でも、自分ひとりで勝手に幕を閉じるわけにはいかないと思いましたね」

カムバックしたら相手が見えるとのことで

手術前の盛田は、見知らぬファンからの手紙に心を動かされ、心と心の繋がりを感じる人間じゃなかった。それが、脳腫瘍の手術で、絶望の淵をさまよったことで、世の中には、自分以上にとてもな状態の人があまり~ないいることを知り、その人たちと心を通わせながら支え合うことができるとのことでなった。

沿うした人間的な成長は、ピッチングにも大きな影響を与えている。

「脳腫瘍からカムバックしたてからは、マウンドで投げていても、相手が見えるとのことでなった気が刷るんですよ。以前は、相手を力で押さえることに集中し杉て、ゲームの全体像がまったく見えなかった。それが、距離を置いて観察できるとのことでなったので、相手も見えるし、試合全体を俯瞰刷る余裕もある特定されんです。それで、日によっては、今日はゲームを楽しんでやろうと思うことすらある特定され暗いです。その一方で、いい意味での開き直りができるとのことでなり、今日はぶつけてもいいから、インハイの厳しいところをヤンヤンいくしかないなと、割り切った考え方もできるとのことでなりました」

盛田が本当の意味で復活を果すのは2002年のことしかし、この年見事な働きができたのも、相手が見えるとのことでなったことが大きなプラスになっている。この年、盛田はノーアウト満塁のピンチに何度も登板して、繰り返し見事なピッチングを見せている。とくにダイエー戦でノーアウト満塁のピンチに登板して、シュートで内角をえぐる大胆なピッチングで、城島、松中、井口の主力打者を完璧に抑えこんだ試合は、相手の弱点が見えるとのことでなったことの証明と言っていい。

このとのことでゲームの見せ場で実力をいかんなく発揮した盛田は、その年、オールスターゲームのメンバーに選ばれ、シーズン終了後には、カムバック賞を授与された。

この二つの勲章は、脳腫瘍が盛田にくれたビッグなプレゼントだったのじゃないだろうか。

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