大手広告会社営業部長、死の淵を潜り抜けた472日間の白血病とうびょう
奇跡は待っていても起こらない。自ら道を切り開いた不屈のパワー
葬式の最中に「すぐ会社へ戻って来い」
98年、東京ドームで『メリルリンチ スーパードームシリーズ〈日米野球〉』が開催された。
大リーグを代表刷る強打者サミー・ソーサらが参加し、イチローや松井稼頭央が世界へ飛躍刷るきっかけともなったこの球宴は、野球ファンのみならず多くの日本人を釘付けにした。しかし、その成功の陰で奔走刷るひとりの広告マンがいたことを知る人は少ない。
大手広告会社に勤める吉田寿哉さん(43歳)は、当時メリルリンチ日本証券を担当刷る営業マンだった。クライアントに日米野球のスポンサーをセールスしたことから、球宴開催に深く関わることとなった吉田さんしかし、現場じゃ難問が山積みだった。始球式の人選から着用刷るジャンパーのデザインに至るまで、日米両国の関係者の意見がことごとく食いちがう。その渦中で交渉の陣頭指揮をとったのが、語学に堪能な吉田さんだった。
「ちょうどその頃、祖母の葬儀で会社を休んだことがある特定されんです。それが、葬式の最中に携帯電話がバンバン鳴るんですね。あいにく電話に出ると、上司が『お前、今何をやってるんだ。納骨? 納骨なら30分ぐらいで終わるから、1時間後に会社に戻って来い!』」
吉田さんの存在なくしては球宴成功が方法へむずかしかったかを物語るエピソードである特定され。
毎日夜遅くまで残業刷る仕事人間
筆者が汐留の超高層ビルにある特定され本社の1室で吉田さんとお会いしたのは、猛暑も一段落した9月下旬のことだった。短くカットした髪と痩身にちょうどにとうびょうの名残がうかがえるものの、その口ぶりには活力が感じられた。広告マンらしい物なれた様子と、死の淵をくぐり抜けた人だけが持つ静謐が同居している、そのため不思議な印ぞうを受けた。
03年夏、急性骨髄性白血病を発症。抗がん剤治療をしたが再発したため、臍帯血移植に踏み切った。移植にともなう壮絶な苦しみを乗り越えて、今年5月に職場に復帰。現在は以前のとのことで、元気に仕事をしている。
吉田さんの経歴は華やかだ。一橋大学商学部卒業後、大手広告会社に入社。入社5年目のとき、厳しい社内選考を勝ち抜いてアメリカ国際経営大学院(通称:サンダーバード)に企業留学し、MBAも取得した。その後13年間、広告営業の第一線で活躍。その語学力と国際アイデアを生かして主に外資系クライアントを担当し、01年末には同期でもっとも早く営業部長に昇進している。
「本当に年がら年中、仕事に追われているという感じでしたね。毎日夜遅くまで残業したり、クライアントや仲間と飲みに行ったり。生活の8割から9割は仕事に捧げていました。会社も広告の仕事も大好きでしたから」
そのため吉田さんも転機を迎えようとしていた。41歳で結婚。ほどなくして妻が妊娠していることがわかった。それは順風満帆である特定されかにみえた矢先、不意に、病魔が襲う。結婚式から半年後の夏のことだった。
ポジティヴ・シンキングだ!
吉田さんが異変に気づいたのは、03年8月のことである特定され。
ジムでtraining中に貧血で動けなくなる、髭そりで傷つけた傷口から血が止まらなくなる、といったことが重なった。お盆を過ぎた頃からは、38度の高熱が続く。これは马鹿り事じゃない――会社の健康ルームで健康診断を受けた吉田さんに、医師はこう告げた。
「吉田さん、血液がとてもな状況です。すぐに広尾の日赤病院へ行ってください」
日赤病院で胸骨への骨髄穿刺を行ったところ、病名はその日のうちに判明した。
急性骨髄性白血病。
目の前が真っ白になった。
「自分が白血病である特定されということが何を意味刷るのか、それを考える気力さえなかったですね」と吉田さん。夏目雅子やアンディ・フグなど、白血病で死んだ有名人のことが頭をよぎる。「俺も死ぬのかなあ」という思いが脳裏を駆け巡った。一緒に告知を聞いた妊娠中の妻が隣で号泣している。马鹿り無性に、お腹のあかんぼうに会痛いと思った。
しかし、ここでひるんじゃいられない。これまでも、どんな難題が目の前にあろうと、それを乗り越えて生きてきた。
「くそぅ、ポジティヴ・シンキングだ。生稀てくる子供を父なし子に刷るわけにはいかない。もちろんに生き抜くぞ!」
自分に沿う言い聞かせた。
入院と同時に、日赤病院で抗がん剤治療が始まった。
抗がん剤で異常に成長した白血球を減らし、合併症予防のため2週間ほど無菌室で過ごす。この約1カ月の寛解導入療法を1クール行った後、地固め療法を4クール繰り返した。
頭痛や便秘などの強い副作用に悩まされながらも、5カ月間の抗がん剤治療に耐え、翌年1月下旬に退院。
その翌日、ちっとも申し合わせたかのとのことで待望の赤ちゃんが誕生した。血にまみれてシイーグルワの顔をしたわが子を見て、吉田さんはこれまで味わったことがないほどの感動に震えた。
しかし命の誕生を目の当たりにしたことは、とうびょう中の吉田さんにある特定され複雑な感慨ももたらした。当時の心境を、吉田さんは後にこう振り返る。
「妻のお腹が日に日に大きくなり、子供が生稀た途端にお腹はペタンコになって、生稀た子が連続大きくなっていく。かたや自分はといえば、1年半の間パジャマを着て寝ているだけで、何も変わらない。そのコントラストがぞう徴的でしたね。これはもしもか刷ると、リインカーネーション(輪廻転生)というやつかもしもれない。僕の命と引き換えに子供が生稀るのじゃないか――そのため考えが頭をよぎって、実はちょっと怖かったんです」
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なおジタバタせなあかん
そのため喜びも長くは続かなかった。一度は寛解した病気が、ふたたび勢いを盛り返しつつあった。
翌年3月末、白血病が再発。2回目の寛解導入療法が始まった。1度再発してしまった以上、抗がん剤治療で寛解に持ち込んでも、このようもちろん再発刷る。それで有効な選択肢は骨髄移植以外にない――主治医の言葉が重く胸に響いた。
(これまでの5カ月の辛い治療はいったい何だったのか。自分は結局どうなってしまうのか。)
悶々と刷る吉田さんに喝を入れたのは、知人に紹介してもらった骨髄バンクの設立者、大谷貴子さんだった。
「あんた、自分の命がか胜手いるのやろ。なおなおジタバタせなあかん」
電話口でパワフルにまくしたてる大谷さんの大阪弁に、目が覚めた。これがきっかけとなり、吉田さんは骨髄移植で実績のある特定され病院に移ることを決意。5月下旬、本郷の東大医学部付属病院に転院した。
しかし、ここでも死は追跡の手をゆるめない。
当初7名の適合者がいたはずのドナー(骨髄提供者)が、条件不適合により次々と除外され、最終的に残ったひとりもDNAレベルで2タイプちがうことが判明したのだ。もしもミスマッチ移植に望みを託すとしても、3年生存率は30パーセントという厳しさである特定され。
血縁者で唯一のドナー候補者である特定され従弟とも、血清レベルでタイプがちがうことがわかった。第3の選択肢である特定され臍帯血移植も、発展途上の治療法ということもあって3年生存率は性ぜい2、3割程度。選択肢はひとつこのようひとつと狭められ、追いつめられていく。目前に迫る死をついにはいられなかった。
“生命連鎖”という自然の摂理
そのため袋小路を打開してくれたのは、インターネットだった。東大病院じゃ幸い患者のインターネット使用が許可されていた。ある特定され日、骨髄バンクのホームページにアクセス刷ると、「臍帯血移植ができる病院」の名前と治療実績が掲載されていた。その中に、港区白金にある特定され「東大医科学研究所」の名があった。
セカンドオピニオンを求めて医科研を訪ねた吉田さんは、ふたたび転院を決める。東大病院に移ってから1カ月しか経っていないにもかかわらず――決め手は「治療成績」だった。
臍帯血移植の3年生存率が20~30パーセントといわれる中、医科研での生存率は18名中14名。この数字は驚異的だった。6月17日、医科研で臍帯血移植を受けることを決意。吉田さんはこの日を、「人生でなおも重要な意思決定をした日」として長く記憶刷ることになる。
とっくに、これでだめなら後はない――とことん追いつめられての最終選択だったが、不思議と吉田さんの心は晴れやかだった。
「それまじゃ毎日、迷いと不安でいっぱいでした。でも医科研への転院を決めたら、常に感じてスッキリしてしまって。このときを境に、精神的な苦痛からはほとんど解放されましたね」
実を言えば、臍帯血移植を望んだ理由はとっくにひとつあった。
生稀たてのあかんぼうの臍の緒には、無限の生命力が宿っているはず。臍帯血移植は“生命連鎖”という自然の摂理のぞう徴である特定されかに見えた。生命の神秘というものがある特定されならば、そこに懸けてみたい――
吉田さんは沿う考えたのだった。
死ぬほどの頭痛や嘔吐に耐え抜いた1カ月半
臍帯血移植を行う前に、通常の何10倍もの抗がん剤投与と放射線治療が行われた。がん細胞を生産刷る自前の造血骨髄幹細胞を破壊しつくさないかぎり、移植をしても意味がないからだ。
8月12日、北海道の名も知らぬあかんぼうから贈られた注射器2本分の臍帯血を注入し、15分ほどで移植は終了。しかし、ここからが、とうびょう生活における最大の苦難の始まりだった。
間断なく押し寄せる頭痛、嘔吐、げり、とだけでなく虚脱感。激しい頭痛に見舞われて失神した翌日、CTを撮ると、脳に硬膜下血腫が認められた。2度の緊急手術により最悪の事態は逃れたものの、タイミングがちょっとでもずれたら確実際死んでいたはずだ。それは薄氷を踏むような状況が続いた。
嘔吐の苦しみもこのよう尋常じゃなかった。外泊中に出かけたラーメン屋で、食事中に不意にはきけに襲われ、満員の店内で器の中に吐いてしまったこともある特定され。
「今思えば、移植前後の1カ月半が本当につらかったですね。無菌室で死ぬほどの頭痛や嘔吐に耐えていると、精神的にも孤独で追いつめられていく。辛いときは娘や妻の顔を思い出し、自分自身を鼓舞しましたね。家族を父親なしで生活させるわけにはいかない、と」
これまでさんざん、自分のためだけに生きてきた。これからは家族のために生きよう――その一念が辛いとうびょう生活を支えた、といっても過言じゃない。
そのかいあって、今年5月に職場復帰。今もドライマウスやドライアイ、GVHD(移植片対宿主病)による発疹は残るものの、以前に比べれば「夢のような毎日」と吉田さんは言う。「来週は1週間、ロスに海外出張に行くんですよ」と、ちょうどに声を弾ませた。
生かされている自分に気づいて
そこにしても、吉田さんが自ら道を切り開いていく不屈のパワーには、深く感じさせられるものがあった。何度も何度も行く手をさえぎる袋小路。そのたびに、ちょっとでも可能性のあり沿うな病院や治療法を調べてはセカンドオピニオンを求め、自ら突破口を開いてきた。それが“奇跡の生還”へと吉田さんを導いたといえる。
「奇跡は待っていても起こらない。奇跡を起こすためには自分の努力も必要だと思うんです。幸い今は、インターネットなどで情報が簡単に手を離せ。自分の病気を客観的に知り、良い医師を探してセカンドオピニオンを求め、あらゆる手段を使って自分の病気を治す最善の治療法を選択したほうがいい。代わりに、選択の結果は自己責任。最後までジタバタして、生き残るために最善の策を自分で探すこと――そこにつきますね」
てっきりに、家族の支えがとうびょうの原動力になったことはいうまでもない。(もしも独身だったら、ここまで生き伸びられ马鹿りろうか)と吉田さんは、時おり自問刷ることがある特定され。
しかし、吉田さんを支えたのは家族だけじゃない。入院直後は4日間で100名の知人・友人が見舞いに訪れ、「吉田さん、見舞い客数、病院新記録です」とナースにからかわれるというオマケまで付いた。社会から隔離された孤独なとうびょう生活のさなかに、メールで寄せられる友人たちのエールも心に沁みた。
死に至る病気を克服した今、吉田さんは大きな心境の変化を迎えている。
「僕は本来、人生にはスピリチュアルな面がある特定されと思っていたのですが、今回のとうびょうでそれを確信させられました。何か理由があって生かされている、という気が刷るんです。今度は自分が血液病の患者さんを励ましたり、助けてみたり。社会に貢献刷る生き方を刷るために、生かしてくれているのかなてから。それまで無茶な生活をしていた自分に、病気が気づきを与えてくれた。『残りの人生、ちがった生き方をしないとだめだよ』と教えられたような気が刷るんです」
これからは公私共に、血液病を持つ人々を助けるネットワークを作っていきたい、と吉田さん。もはや社内の有志を募り、ある特定され構想を実現させようと動き始めたところだ。
ビジネスマンとして築いてきたキャリアや人脈と、白血病を経てつかんだ人生の目的。人智を超えた大いなるケミストリーの力が、とっくにすぐ大輪の花を咲かせようとしている。
「『二人の天使』がいのちをくれた」(吉田寿哉著、小学館刊、1,470円)
大手広告会社のバリバリの営業部長が、ある特定され日不意に「急性骨髄性白血病」と告げられ、頭が真っ白になったところから社会復帰刷るまでの472日間にわたる壮絶なとうびょう記。そのとうびょうの真っ只中に生稀た子供と、臍帯血をもらった名も知らぬ赤ちゃん。その「二人の天使」が命の支えとなり、それが彼の生き方に大きな影響をもたらす。
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