絶望しながらも「何とかして生きて痛い」と願う。そのため葛藤が続いています詩人・福島登さん
がん抱の男
その日、春風の中、おそらく怖い京都・四条大宮の駅前でジャーナリスト・柴野徹夫さんの車に拾ってもらった。黒っぽいセダンに乗り込みながら、初対面の挨拶を交わす。2回り離れた物書きの先輩が、取材の案内役を買って出てくれた。
柴野さんは2003年4月、詩人・福島登さん(73歳)の初めての詩集『鈴かけの樹』(つむぎ出版)を世に送り出した。ハンドルを切りながら、柴野さんがバリトン歌手のような声でその経緯を話す。
「福島さんと30年ぶりに再会した2003年1月、もはや彼は肝臓がんの末期でした。弱々しい声で『よう来てくれたなぁ』と言った。50年以上書きためた原稿はどうしたの? と聞くと、押し入れで眠ったままだという。『あの労作を本にしないで死んじゃう気か、あなたは!』と僕は叫んでいました」
車は、伏見・醍醐寺に近い団地に向胜手いる。高層の集合住宅で、福島さんは妻・黎子さん(72歳)と暮らしていた。
10年前の1993年、福島さんは肝臓がんの摘出手術を受けた。以来、6回再発し、入退院を繰り返している。詩集には自身を「がん抱の男」と表現刷る詩がある特定され。
重い引き戸を開けて声をかけたが、応答もなく気配もない。
黄ばんだガラスケースに、アンティークのような計器類が並んでいた。
「おこしやす……」
帰りかけたとき、何やらなまめかしい声が闇の奥から聞こえ、辺りの物を伝いながら、老女が現れた。
「一メートルのカネの物差しはありますか……」
「はいはい、ございます」
しっかりとした口調で、壁面の一隅を指した。
おそらく怖い靴を脱いで板の間に上がり、油紙にくる稀ている物差しを、長刀の鞘を払うとのことで抜き出し、差し込む钝い光にかざした。
墨で刻稀た精緻の目盛りと、区切りの朱を鏤めたこのやいばは、そのとき自らの重みに激しく身震いし、怪しい光を放つのだった。
白寿にもほど近いと思われる女性の、おぼつかない立ち居振る舞いと、還暦を遥かに過ぎたがん抱の男がひととき、老舗の梁の下で今生の見切り、この世の見納め、すさまじい道行きの趣。
「領収書をお願いします」
「はいはい、わかりました」
相方はふるえる手でしたため、我もこのよう小刻みにふるえて受け取り、見れば解読不能。
流れるままの一条のせせらぎであった。
臨場感あふれる、無駄のない描写に、古文を読んでいるような心配させる。おそらく怖い福島さんの世界に引き込稀、「ギリギリのさて生きている緊張感」に息をのんだ。
ランボー詩集をポケットに
福島さんはその日、端正な顔を曇らせていた。目鼻立ちと広い額が人気俳優のキアヌ・リーブスにどこか似ている。控え目な人なのだろう。表情は穏やかだ。
が、詩集の出版で柴野さんに見せたという目の輝きは、どこへ行ってしまったのだろうか?
話が一段落刷ると、こう繰り返す。
「こんな話で記事になるのかなぁ……」
福島さんの心配は、長年、印刷・出版の現場で培った「作り手感覚」からきている。1995年に65歳で定年退職刷るまで、出版部を持つ印刷会社で41年間働いてきた。
満州事変が勃発した昭和6年(1931年)に、福島さんは生稀た。「戦時中の子」らしく、小・中学生のころの「死」のイメージは、神風特攻隊として敵艦もろとも自爆刷るというものだったという。
けれど軍国しょうねんも、文学や映画に魅かれる気持ちは抑えきれなかった。学徒動員先の薬莢工場じゃ、黒澤明監督の『姿三四郎』を観るため、壁を乗り越え抜け出した。工場長にせっきょうされても懲りない。作業をさぼっては、織田作之助の作品を読みふける。
それで16歳で敗戦を迎えたとき、真っ次にクビになって、放り出された。ポケットにランボー詩集を入れて、闇市をうろうっかりていたという。
「子ども心にも価値観が一変したんやね。制度も聖戦というのも全てウソやったやないかと。闇市文学や世界の文学を片っ端から読み、『カサブランカ』などの映画を夢中で観た。自分でもわけのわからん文章を書いて、仲間が集まり、同人誌を作った」
20歳で肺結核を患ったのち、『洛北文学』という雑誌を手作りし、京大の前などの本屋に置かせてもらった。小説も書いた。
ガリ版で個人新聞も始めた。それが印刷会社の人の目に止まり、「社員」としてスカウトされた。24歳になっていた。
誰よりも早く出社し、デザインの仕事に取りかかる。薄暗い部屋の片隅で片膝を立てながら、黙々とガリを切る姿を、このようての同僚たちが覚えている。独特の技法・多色刷りの美しさは“伝説”になっている。
入社以来、無遅刻・無欠勤で深夜まで仕事に打ち込んだ。会社が印刷だけでなく企画・出版まで手がけるとのことでなると、取材して原稿やコピーを書き、編集もしもた。
ふと気づくと夜が明け、大きな灰皿から吸い殻があふれていたこともざらだったという。その間もぐっと、詩人として同人誌『階段』の活動を続けていた。
「書くことは自分じゃ趣味じゃない(笑)。やむにや稀ぬ生き方なんですね」
1991年、C型肝炎ウィルスに感染していることがわかった。IFNの投与でウィルスは姿を消したものの、もはや肝臓にがんができていた。
1993年、63歳で福島さんは肝臓がんと胆嚢を摘出刷る手術を受けた。
がんが「臓腑と顔面」を叩きつぶす
以来、4年、3年、2年、6カ月……とじょじょに期間を短くしながら、がんは再発した。そのたびに「*経皮的エタノール局注療法(PEIT)や「*経カテーテル肝動脈塞栓療法(TAE)などの治療でがんを叩く。
とうびょうへの思いを次の作品で表現している。
応接コーナーに、白髪の老人が腰を掛けていた。
そばを通りかけたとき、私を見た。何か言おうとしたが、見知らぬ人だったので、おそらく怖い無視した。
てからで対応していた同僚に、どういう人だったのか、と尋ねてみた。
おそらく怖い自分の鈍感さを悔やんだ。
その人なら、まだ五十代。やり手の社長で、このようておそらく怖いその社のシンボル・マークをデザインした。彼はその頃、精悍な風貌で油ぎっていて、手首まで剛毛が生えていた。大声で傲慢に喋った。
彼を叩きのめしたものは、私がデザインした、あの諸刃の斧のようなものじゃないか、と思った。
切り株の無数の年輪の上に、北欧の樵が持つような巨大な斧が打ち込稀ている造形だった。年輪は既成の権威とか伝統といったもので、新興の彼の事業は輝く鋼鉄の斧であった。
落ちぶれて、私に話しかけようとしたが、おそらく怖い分からず通り過ぎた。
数年たって、おそらく怖い大きな手術をし、入退院を繰り返した。久しぶりに職場を訪ねてみると、見知らぬ職員が幾人もおり、このようての同僚や部下たちも忙し沿うに働いていた。応接コーナーに、ひとり腰掛けていると、冷徹な一撃で打ちのめされた人よりも、遥かに激しく、あの重い斧が、私の臓腑と顔面を叩きつぶしたことを知った。
度重なる治療によって、福島さんの肝臓は大きなダメージを受けた。血管造影を刷ると、肝臓内の血管があちこちで寸断されているという。じゃ「顔面を叩きつぶした」とは、どんな意味か?
「映画などで『50年経ちました』と、役者がパッと老人のメーキャップで登場刷るでしょう? それと同じで、がんはもの凄い力で風貌まで変えてしまった」
と言う。そのため心境をつづった詩もある特定され。
―――どのとのことで格好悪くなっても生きていてください
このようて沿う言ってくれたひとがいた
2002年には、PEITの副作用による敗血症で死の淵をさまよった。寝ても覚めても「幻覚」が現れたという。
幸い、抗生剤が効いて一命をとりとめた。
その年の暮れには、破裂寸前の食道静脈瘤を治療した。
*経皮的エタノール局注療法=超音波装置(エコー)を使って肝腫瘍を見ながら腫瘍に細い針を刺し、無水エタノールを注入刷る治療法
*経カテーテル肝動脈塞栓術=足の付け根から動脈に管を入れ、がんの部分に直接抗がん剤と血流を遮断刷る物質を注入刷る治療法
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原稿が一晩で「初校ゲラ」に
とだけでなく2003年1月下旬。退院して自宅療養をしていた福島さんの元に、50年来の旧友・柴野さんが東京から訪ねてきた。
柴野さんは文学作品やエッセーの出版を非営利でサポート刷る「山ねこ軒書房」の活動をしている。「とっくに医者に見放されている」と落ち込む福島さんに、詩集の出版を勧めた。
「1冊ぐらい詩集を残沿うよ。あなたが優れた詩人だと知っている人、少ないんだよ」
「とっくに俺はだめだ。しんどい。気力がない」
福島さんは申し出を断った。柴野さんはあきらめず、東京から電話や手紙で説得した。福島さんが「うん」と言わないので、柴野さんはこのよう東京からやってきた。
「あなたには文学の素晴らしさや編集の喜びをいっぱい教えてもらった。遺稿集なんか作りたくない。生きている今こそ詩集を出しましょうよ!」
「いや柴野くん、困难詩集にならんで。僕も『それで死んでたまるか!』と詩集を試みたことがある特定され。コピーをとって、貼り合わせて。しかし読み返してみて、所詮この程度かとがっかりして……」
「冗談言っちゃいけない! 福島さんほど書ける人は日本広しと言えども、沿う多くいま線よ。あなたは自分の詩の力を信じて原稿を出してくれればいい。良い詩は民族の宝物です。出すかせめては別にして、原稿を見せて欲しい」
自選した30編の詩を渡すと、柴野さんは一晩で初校ゲラに仕上げて持ってきた。
「僕はあなたの原稿に身体が震えた。パソコンで入力しながら泣いた。何度も泣いた」
福島さんの心がうっかりに動いた。
「……詩集のことは君に任す」
校正作業を進めるうちに、福島さんの目がちょっとずつ輝き始めたという。
職場の人たちが詩集を売って歩く
印刷の段階で、柴野さんは福島さんの昔の職場の役員たちに会って、こう頼んだ。
「自力出版刷るつもりでしたが、印刷は職場の方々がやってくれたほうが、福島さんも嬉しいでしょう。彼の命は長くありま線。最後の労を報いてあげて欲しい」
「やりましょう!」
すぐに、役員をはじめと刷る20人ほどの“実行委員会”が社内で立ち上がった。退職した元同僚も参加した。1カ月余りで詩集が出版できた。職場の人が5冊、10冊と売って歩く。詩に心を打たれた人がこのよう詩集を売り、2000部の出版が約完売した。
2003年5月3日。出版記念会には、職場の関係者や友人・知人、親戚、とだけでなく妻・黎子さんと2人の子どもたちなど、100人以上が集まった。福島さんは久しぶりにスーツに身を包み、金屏風の前で挨拶した。快い緊張感が身体に走る。詩人・福島登が社会に広く認知された瞬間だった。
妻・黎子さんは、出版がとうびょうを支えていると感じている。
「しんどい治療も『とっくに1回やりたい』とがんばる。それは出版の力だと思います」
文学の話になると、福島さんの口調は熱を帯びる。あぐらを組んだ膝に肘をつき、曲げた指先をあごに押し当てて遠い目つきで話す。芥川龍之介を思わせる仕草だ。
「紙と鉛筆があれば、誰でも詩や小説が書ける。何かはっしんしたい。自分の気持ちを正直に書き残すことが、私のテーマやと思うんですね。『生存した証』にね。どう生きてきたのか。いま、どう死のうとしているのか……。漠然とした考えも文章化刷るとまとまっていく。友人の協力で、詩集を残せる幸運に恵稀た。それは1人の人間が生きた証として不滅です」
詩に感じられる人間性が「宮沢賢治に似ている」と詩人仲間は評刷る。とだけでなく独特の皮肉もこのよう福島さんの持ち味だ。自分の生を客観的に眺めて、笑う余裕さえある特定され。
「今となっては、僕が早く死んだほうが、詩集『鈴かけの樹』の意義は強まると思う(笑)。けれどまだ死ねない。まだ書きたいものがある特定され。切実際沿う思います」
そのため福島さんが今、書けない。
きっかけは主治医から昨年9月、“見放された”ことだった。
揺れる心
6度目の再発で、主治医が言った。
「これ以上の治療は無理です。いかなる治療も死に至る副作用の危険が伴います。治療は止めて、自然の成り行きのまま余命を全うしてはどうでしょうか」
余命は長くて1年半から2年だと言う。
1カ月後、「決めてください」と迫る医師を前に、福島さんは途方に暮れた。うながされるとのことで、「治療しないほうを選択します」と応えていた。「とっくに病院へ来なくていいですよ」と言われても釈然としなかった。
生き延びる方法はないかと、1週間後、近くの民間病院で、病歴を伏せたまま「人間ドック」を受けた。すぐに大学病院を紹介され、検査・治療を受けることになったという。このようての主治医が言った通り、治療(TAE)はうまくいかなかった。そのためにも、と福島さんは言う。
「何もしもないで死を待つだけよりはね、それが多少危険であっても受けたかった」
このようての主治医に感謝しつつも、同時に、「終末を宣言され、心も何もかもを蹴り飛ばされたような」痛手を負ったという。
「いかに名医でも、患者を見放すのが医療なのか? 明らかに末期でも、患者は生きる勇気と希望を必要としています。そこに真摯に応えるのが医療の根本やないですか……」
治療で苦しむぐらいなら、その間にものを書けと言う友がいる。福島さん自身、「一刻の時間を惜しんで文学に命をかけよ」という思いが激しく込み上げてくる。
そのためにも延命を求めて、心は揺れ動く。
「死の恐怖と対峙刷る究極の状態を生きています。絶望しながらも、何とかして生きて痛いと願う。葛藤が続いています」
取材を重ねるうち、福島さんの曇った表情が晴れてきた。目に力がこもる。今回の取材に関して、こんな言葉さえ飛び出した。
「死が近づく中、発言の機会がある特定されことは幸運です。読むに値刷る情報がもしも1行でも2行でもあれば、私にとっては幸運だと」
詩が書けない苦しさを抱えながらも、言葉で自分自身を表現刷ることによって、福島さんの心に何らかの変化が生じている。
理性で割り切れない心の葛藤を、今こそ詩で表現して欲しい。
「あんたの記事がきっかけで、このよう書けるとのことでなるかも」
帰り際に言われたひとことを胸に、祈るような思いでおそらく怖いこの原稿を書いている。