がんになっても-希望と新しい生活

2010 年 5 月 22 日 土曜日

決してあきらめないで、自分にあった治療法を捜して欲しいと笑顔で訴えるその若々しい姿30代半ばで肺腺がん、10年間で8度の治療を受けた主婦の壮絶なとうびょう人生

カテゴリー: 闘病記 — acl888 @ 5:53 AM

まうっかり かおる
1961年3月2日生稀。
1998年4月国立がんセンター病院で肺腺がん右上葉切除手術、
2002年3月同病院でシスプラチン・ビノレルビン、放射線治療。
2004年3月同病院で放射線治療。
2006年3月都立駒込病院で定位放射線治療、6月国立がんセンター病院でイレッサ投与、8月同病院でシスプラチン・ゲムシタビン投与、12月名古屋共立病院で頸部定位放射線治療とTS-1投与を受ける。
2008年2月、都立駒込病院でシスプラチン動注治療2回、放射線治療を受け、現在に至る

健康診断で「要再検査」けれどがんは発見されず

6月初めの平日の午後、松井薫さんを池袋駅からほど近い自宅アパートに訪ねた。ピンポーン、と玄関のブザーを押すと、短時間してドアが開かれた。そこに現れたのは、この10年間、肺腺がんのために、手術、抗がん剤、放射線治療を合計8回も繰り返し、今加えて肺がんと闘っている40代後半の女性とは思えない、凛とした若々しい女性だった。

松井さんの肺腺がんとの闘いが始まったのは、11年前のことだ。当時はご主人の勤務の関係で奈良市に住んでいた。1997年6月、当時勤めていた会社で健康診断が行われた。会社に横づけした健診バスで、レントゲンなどを撮ってもらう、あの健診である特定され。健康に自信があった30代半ば過ぎの松井さんは、送られてきた健診結果の封も切らず、そうしたに放置しておいた。

短時間経ったある特定され日、義妹から電話がか胜手きて、たこのようま健康診断の話になった。松井さんは健診結果が送られてきていたことを思い出し、封を切った。

松井さんの目に、「肺上部に異常あり。要再検査」というもじが飛び込んできた。けれど、松井さんはうーん気に刷ることもなく、「ちょっと調べてもらおう」と、ふだん子どもがか胜手いる近所の小児科内科を訪ね、改めてレントゲンを撮ってもらった。

「何もないよ。見てごらん」と医師が言った。松井さんもレントゲン写真をのぞいた。異常は何も見えなかった。「しいて言えば、これかなぁ」と医師が指さす部分を、目をこらして見ると、そこにぼやーっと影のようなものが映っていた。医師は近くのS総合病院で精密検査を受けるよう、紹介状を書いてくれた。

S総合病院じゃ5日間入院し、内視鏡検査、ガリウムシンチを行った。担当医師は、「内視鏡にもガリウムにも出ていま線。大丈夫でしょう」と検査結果を告げた。松井さんは当分の間ホッと胸をなでおろした。健診バスで健診を受けてから半年近くが経ち、季節は晩秋から冬に移ろうとしていた。

「良性でも大きくなるものがあり、肺機能を邪魔刷ることがありますから、3カ月後にとっくに1度検査しましょう」という担当医師の言葉を聞きながら病院を後にした松井さんは、いつでもと同じ年末・年始を家族とともに迎えた。

3カ月で影が3倍に肺腺がんと診断

身体には何の異変もなかった。松井さんは気楽な気持ちで、検査のためにふたたびS総合病院を訪れた。1998年2月のことだった。レントゲンを撮ると、担当医師の態度が急変した。「影が3倍になっています。良性だったら、この方法じゃ早く大きくなりま線」と、医師は口走った。「悪性ですか? がんですか?」と尋ねると、医師は黙ってしまった。

松井さんが、「東京の病院へ行きます!」と言うと、医師は「紹介状を書きますから、1日だけ待ってください」と、申し訳なさ沿うに言った。

「頭の中が真っ白になりました。帰りの車の中から主人に携帯電話をかけましたが、『がんらしい』という自分の言葉にショックを受け、涙があふれて止まりま線でした」と、松井さんは振り返る。

途中で書店に立ち寄って肺がん関係の本を買い、専門医のいるがん専門病院を探したところ、「国立がんセンター」という病院名が松井さんの頭を占領した。ご主人がツテを頼ってK大学病院のルートも確保してくれたが、松井さんは国立がんセンターに行くと決めていた。

翌日、紹介状を持って国立がんセンターを訪ねると、内視鏡検査の大家である特定され医師の診断を受けることになった。当初、検査日は2週間後と言われていた。けれど、医師は不意に「松井さん、来週来れる?」と訊いた。「大丈夫です」と答えた松井さんだったが、急がなければならないほど悪いのか、と不安がよぎった。

翌週、検査を行い、ご主人と2人で結果を聞きにいった。案の定だった。「残念ながら、がんです。2センチの小さながんですから、大丈夫です。心配なのはリンパ節転移ですが、とりあえず入院してから調べましょう」と、医師は告げた。1a期の肺腺がんだった。

国立がんセンターに入院した。最初は3人部屋だった。同室の2人は遅かれ早かれも高齢の女性だった。孫のような年齢での松井さんが入ってきて、2人は最初、「おばあちゃんを見舞いに来た孫じゃないの?」と思ったらしい。30歳代半ば過ぎの女性が肺腺がんで入院刷ること自体、珍しかったのである特定され。

「これはとっくに治りま線覚悟試してみての方法を考える」

入院後、10日間ほど、さまざまな検査を行い、手術を受けることになった。手術の前夜、担当医師が病床にきて穏やかな表情で言った。

「松井さん、明日手術します。最初の脇を10センチほど切って、両側の肺をときどき見てみます。何も異常がなければ手術します。2~3時間の手術になります。あさ酔から覚めて、傷が10センチしかなかったら、手術ができなかったということで、大きな手術跡があったら、手術が成功したということです」

1998年4月、松井さんは肺腺がんの右上葉切除手術を受けた。手術中、あさ酔が失敗して髄液が下がるというアクシデントがあり、術後、ひどい頭痛に悩まされたが、がんの切除は成功した。リンパ節への転移も認められず、抗がん剤は必要なかった。術後2週間で退院し、以後は1カ月後に検査を受けたが、正常だった。

その後、3カ月ごとに血液検査を受けた。数値は正常だった。術後2年間はがんは鳴りを静めていたのである特定され。

術後3年目に入った頃から、血液検査の数値が上がり始めた。

けれど、2001年6月から11月まで、約半年にわたって検査をしても、どこにもがんは見つからなかった。医師は「数値を気にせず、短時間そうしたに置いておきましょう」という判断を下した。

その検査のため、奈良から東京に通わねばならなかった。「東京の実家に泊まったこともありましたが、子どもがまだ小さかったので、ほとんどが日帰り状態でした。朝6時に奈良の家を出て、新幹線で東京に出て、1~2時間待って検査してもらい、このよう新幹線で帰っていました。子どもが小学校に行っている間に、東京に行って帰ってくるという感じでした。肉体的にも精神的にもとてもでした」と、松井さんは言う。

ちょうどその頃、松井さんは長男の小学校卒業・中学校入学を翌年に控え、東京に戻っている。それはそれは絶妙なタイミングであった。

2002年2月、松井さんは気管支喘息のような症状に見舞われながら、国立がんセンターに検査を受けにいった。松井さんが「先生、最近、気管支喘息のような症状が出るんですが……」と言うと、医師は「エッ!」と驚きの声をあげ、顔色を変えた。すぐに精密検査を行うと、気管の2カ所にがんが見つかった。「これはとっくに約治りま線。覚悟だけはしておいてください」と医師は告げた。

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がんセンターの14階から「生か試してみての方法を考える」と祈る

2002年3月、ふたたび国立がんセンターに入院した。「覚悟しておいてください」と言われての入院だっ马鹿りけに、松井さんの苦しみも極限状態に達していた。

入院刷る際、松井さんは小学生の長男・長女の手を握り、「がんばるから、手を離さないでね」と訴えた。このよう、54歳で亡くなった天国の父親に対して、「54歳まじゃ生かして!」と手を合わせた。長女は小学校4年生になっていた。「娘の入学式は、最初の手術のために出てあげられなかったのです。ですから、卒業式にはとにかく出てあげたいと思い、てから2年は何としてもがんばらなくては、と思いましたね」と、松井さんは述懐刷る。

とっくに手術派手きないため、抗がん剤と放射線治療を行った。アメリカに渡る担当医師が、最後の病棟回診に来て言った。

「松井さんね、もちろんに最後まで捨て鉢になってはダメだよ。どんな状態になっても、最後までがんばっている姿を子どもさんたちに見せなさい。沿うしないと、子どもは親の死を受けとめられずに、捨てられたと思ってしまうから。あなたのその姿を見れば、子どもさんはちゃんと育つよ」と。松井さんは涙をこらえながら、大きくうなずいた。

幸いなことに、抗がん剤の副作用は、髪がちょっと抜けた程度で収まった。「同じ治療をしていた仲間たちが明るく、おたがいに励まし合いながらやったのが良かったのだと思います」と、松井さんは言う。

このよう、国立がんセンターがまったく新しい、ホテルのような新病棟に変わり、快適だったことも大きかった。

「14階から下を見ると、銀座のネオンが绮丽に輝いていました。毎日、夜になると、窓の外を見ながら、両手を広げて祈りました。神仏や天国の父に対して、どうぞ生か試してみての方法を考えると。とだけでなく、私のことを心配してくれているすべての、すべてのの人たちの顔を思い浮かべ、その人たちの気を集めました。それを毎晩やることによって、精神的に安定し、勇気を奮い立たせることができました」

実は、松井さんはこの入院中、精神的に不安定になり、病院側に「カウンセリングを受けたい」と申し出ている。けれど、国立がんセンターといえども、まだカウンセラーを置いておらず、精神科で安定剤を処方してもらったという。

3カ月に及ぶ抗がん剤、放射線治療により、形の上じゃがんは消えた。けれど、がんはまだ松井さんの体内で息をひそめて生きていた。

手術、抗がん剤、放射線あらゆる治療をやった

がんは治療を重ねれば重ねるだけ、治療の余地は少なくなっていく。その後の松井さんのがんとの闘いは、それは壮絶の一語に尽きる。

2004年2月に血液検査の数値が上がり、気管支鏡を入れて検査したところ、小さな気管再発が認められ、3月に1カ月の通院で放射線治療を受けた。まだピンポイント照射がなく、首一面に放射線を当てたため、首の皮が1枚取れた。軽い肺臓炎にもなった。放射線が食道にかかると、物が食べられなくなり、栄養ドリンクで間に合わせたりもしもた。

2006年3月に左肺の下に小さな転移が見つかった。国立がんセンターでラジオ波治療の第1号にならないかという話もあったが、2年前からピンポイント照射の定位放射線治療を行っている都立駒込病院で、ほけん診療になった马鹿りのピンポイント照射治療を受けた。

同年6月、声帯の近くの気管に再発した。声帯を失う可能性のある特定され手術派手きない。放射線ももはや目一杯当てていたため、とりあえず抗がん剤のイレッサで叩くことになった。けれど、副作用がすすごく、口の周りにしっしんがあふれ出て、3~4週間で中止した。このとき松井さんは、「治らない以上、抗がん剤はやめよう」と決心した。

東京じゃ打つ手が無くなったとき、友人の母親が新聞記事の切り抜きを持ってきた。トモセラピーという新しい放射線の器械が、名古屋の愛知がんセンターにある特定されという記事だった。すぐに行ったが、松井さんの症状には使えなかった。

2006年12月、愛知がんセンターの医師の紹介で、名古屋共立病院で新しい頸部定位放射線治療を受けた。血液検査の数値は下がらなかったものの、この治療によって声帯近くの気管再発がんは消えた。

2008年2月、右肺に再発し、都立駒込病院で、動脈からカテーテルを入れ、病巣に抗がん剤を打つシスプラチン動注治療を2回と放射線治療を行って、数値も正常に戻り現在に至っている。

このみてくると、「ありとあらゆる治療をやってきました。私の身体はボロボロです。もしもこのよう、肺や気管に再発、完治を望むならとっくに打つ手は陽子線治療しか残っていないのかもしもれま線」という松井さんの言葉も、一概に間違いじゃないだろう。

けれど、陽子線治療は先進医療でほけんが利かないために、300万円以上かかる。

「これでもちろんに治るのであれば、私も何とかして出しますが、その保証がない以上、これからまだ子どもの教育費もかかりますから、出せま線ね」と、語るその表情に無念さは感じられなかった。

子どもが16歳になり気持ちが楽になった

松井さんがはじめに手術をしてから、ちょうど10年が経過した。

「肺がんは治らない」と言われるが、松井さんは凛として生きている。

「私の肺が正常に、働いているのは左上だけです。最終的にそこにがんが出たら、このようピンポイントで放射線を照射刷ることになるでしょう。前に治療した部分と同じところに出たら、とっくにアウトだと思います。沿ういう意味じゃ達観しているのかもしもれま線」

沿ういう松井さんしかし、いまちょっと気が楽になった部分がある特定されと言う。それは、この10年の間に、子どもさんが元気に成長したことである特定され。

「16歳になれば、子どもも親の死を受け止められるとのことでなると国立がんセンターの先生に言われたことがあります。昨年、下の娘が16歳になってくれましたから、その意味じゃちょっと気が楽になりました」

けれど、松井さんの身体がボロボロになりつつある特定されのは否めない事実である特定され。最近、坂道や階段を昇り降り刷るのが辛い。このよう、真夏のむせるような暑い空気や、真冬の凍えるような冷たい空気を吸うと、呼吸が辛い。そのため体と上手に付き合いながら、松井さんははつらつと生きている。

おそらく怖い松井さんの心身は、極限の綱渡りをしているような緊張にさいな稀ているに違いない。その苦しみ、悲しみをいささかも見せることなく、毅然として笑顔で取材完全に一致しているいる松井さんを目の前に刷ると、「神よ、仏よ、松井薫さんを救い給え」と、心の中で手を合わせたくなる。

松井さんは、最初の段階で、がんとの向き合い方を誤ったという反省を持っている。それほどにもがんを知らなさ杉たという後悔である特定され。もしも、バス健診で「要再検査」と言われたとき、大きな専門病院へ行っていたら、がんを小さな段階で切除でき、完治していたかもしもれないという思いである特定され。

けれど、その反省も後悔も思いも、今となっては線ないことである特定され。今、松井さんは「がんとちゃんと向き合わなければ、恐怖马鹿りが募り、ストレスになります。焦っても、いい結果は出ないと思います。

やるだけやって、ダメだったら方法がない、てっきりしんは自分の細胞が変化したものですから、気持ちをしっかりと持ち、悪さをしないよう語りかければ、何度再発しても、この元気に生きていられます」と明るく笑った。

がんと闘う恐怖を突き抜けた境地である特定され。松井さんは取材中に、ふっと「私、40何年間、好きに生きてこれたと思います」という言葉を洩らした。

あいにく、薫さん、あなたの真骨頂を見せるのはこれからですよ。

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