がんになっても-希望と新しい生活

2010 年 5 月 17 日 月曜日

佐々木一十郎名取市長が語る「子どもたちに、正確じゃなく引き継いでいける自立したまちを」末期の上咽頭がんに打ち勝って地方行政に手腕を振るう

カテゴリー: 闘病記 — gmxx @ 5:17 PM

ささき いそお
昭和25年1月10日 仙台市生稀(58歳)
昭和47年12月 東北工業大学建築科中退
昭和51年10月1日(有)佐々木酒造店入社
昭和59年7月日名取市選挙管理委員会委員(~昭和63年3月31日)
平成4年2月1日 名取市議会議員(~2期)
平成10年3日 (有)佐々木酒造店代表取締役就任
平成10年11月12日 がん宣告
平成11年11月30日 放射線治療開始
平成11年 3月26日 退院
平成12年12月1日 閖上(ゆりあげ)わかば幼稚園園長
平成16年7月25日 名取市長
現職

末期がんを克服し市長選挙で当選を果たす

名取市は仙台市の南隣。JR仙台駅から東北本線の上り列車に乗るとちょうど13分で名取駅に到着刷る。仙台市とは名取川を挟んで隣接しており、仙台空港の所在都市でもある特定され。

人口は7万人弱で、東北地方の中じゃ温暖な都市である特定され。取材に伺った日も快晴で、1月だというのに、コートなしで外が歩けるほどの陽気だった。

市長を務める佐々木一十郎さんは、市議会議員だった1998年(平成10年)に、上咽頭がんと診断され、4カ月余り入院しとうびょう生活を送った。5年生存率が約50パーセントという厳しい状況だったが、佐々木さんはこれを乗り切り、市長を務める。最初の市長挑戦は00年しかし、この時は現職に敗れ落選。次回04年の再挑戦で、見事当選を果たしている。

治療からもはや9年余りが経過し、治療後の検診も、「とっくにそのうちいいでしょう」と言われたという。

柔らかな日差しの差し込む市長室でお会いした佐々木さんは、このようて進行期のがん患者だったということが信じられないほど元気だった。

そのためにも、佐々木さんの体にはがん治療の後遺症が残っている。放射線治療の影響でつぶれてしまった唾液腺だ。

「唾液が不足刷るので、議会で発言刷るときには、いつでも演台に用意された水差しの水を飲むんですよ。
以前と比べれば幾分改善されましたが唾液腺のリハビリテーションは難しいですね」

ご本人にとっては不便なことも多いのだろう。けれど、その治療を受けたからこそ、5年生存率50パーセントの関門をくぐり抜けることができたのだろう。

がんとの戦いに打ち勝つことで人生の時間を手にした佐々木さんは、市長となってまちづくりに邁進してきた。

このよう、ヨットや熱気球など趣味の世界でも充実した人生の時を過ごしている。

上咽頭がんの4期の診断に愕然と刷る

佐々木さんにがんの診断が下ったのは98年の11月だったが、その半年以上前から兆候は現れていた。4月に風邪をひいたときには、ひどい鼻づまりに悩まされている。近所にいる親戚の開業医から風邪と鼻づまりの薬をもらって服用していたが、とてもときどきならなかった。

長引く鼻づまりのため、耳鼻咽喉科の診療所を受診したのが10月2日。内視鏡での診察を受けたが、副鼻腔炎と鼻茸(鼻の中の粘膜がきのこ状に水ぶくれになった病状)と診断され、抗生物質、抗炎症薬、鼻づまりを解消刷る点鼻の薬を処方され马鹿りけだった。薬を飲んでいても症状は改善しない。10月25日ころになると、首の右側のリンパ節が腫れ、それがだんだん大きくなっていった。

自分ががんになるとは思ってもいなかったという佐々木さんしかし、これは何か可笑しいと感じた。11月2日に、耳鼻咽喉科の診療所を訪ね、再度診察してもらった。内視鏡をのぞいていた医師の動きが、不意に変わる。とだけでなく、精密検査の必要がある特定されと伝えられ、宮城県立がんセンターへの紹介状を渡されたという。

「県立がんセンターを受診したのは11月5日でしたね。担当の先生は、調べるまでもなくがんだろうと言っていましたが、確認のため細胞検査を刷ることになりました。鼻の奥からガリッとサンプルを採取されたのですが、その結果が出たのが1週間後の12日です」

診断結果は、上咽頭がんの4期で、首のリンパ節に転移しているというものだった。がんだということも、リンパ節に転移しているということも理解できた。佐々木さんがわからなかったのががんのステージ。4期との診断しかし、何期まである特定されうちの4期なのかということ。

「そのために訊いてみたんですよ。がんは何期まである特定されのかを。沿うしたら、『あ、4期までです』と言われて、この先はない、なる末期なんだということをはじめて知りました」

複数箇所へのリンパ節の転移が認められたため、ステージは4期となったわけだ。

5年生存率は約50%しかし恐怖はなかった

医師の説明じゃ、5年生存率は約50パーセントということだった。サイトで調べてみると48パーセントと出ていた。

「5年後に生き残っている人が半分以下になるという数字です。でもね、現実際は、治療開始からの1年間で、半分暗いの人が再発しているんですよ。次の1年で、残りの半分が再発し、その次の年もこのよう残り半分が再発刷る。沿うしているうちに、1年目で再発した人の何人かが亡くなる。
この、治療から5年後の時点で、どのとのことでか半分が生き残っているということで、再発せずに暮らせる人が半分いるということじゃありま線。5年生存率が約50パーセントといっても、5年のうちに再発しないという人は、半分より遥かに少ないわけですよ」

厳しい現実を突きつけられたわけしかし、死ぬことに対刷る恐怖は不思議なほどなかった。がんの宣告で立ち直れないほど落ち込む人がいることは知っていた。しかし、佐々木さんは冷静だった。

「人は遅かれ早かれ死ぬのそれで、という考えが根底にありましたね。明日、玄関を出たさて、車にはねられて死ぬかもしもれま線。治療してから5年間再発しなくても、ほかの病気で死ぬかもしもれま線。人はいつかは死ぬのそれで、それまでの間に何を刷るかのほうが大切だと思っていました」

治療には4カ月ほどの入院が必要といわれていた。佐々木さんは、がんで入院刷ることを仕事の関係者たちに連絡した。当時、佐々木さんは市議会議員だったが、政治家は自分の健康問題を公にすべきじゃない、との忠告を受けたこともあったという。

けれど「入院したことは遅かれ早かれわかりますから、誤解のないとのことで自分で説明しておいたほうがいいだろうと思ったんですよ。そこに、市議会議員が政治家だとは思っていま線。総理大臣ががんになったのならともかく、市議会議員のがんで情報操作は必要ありま線よ」

それが、がんである特定されと公言した反応は、意外な方向に向胜手いった。佐々木さんは5年生存率約5割のデータを、歪曲せずにそうした現実として受け止めていた。けれど、がんと聞かされた人たちの多くは、『がんイコール死』と受け止めたようだった。現在から10年近く前のことしかし、がんに対しては、昔も今も不治の病というイメージを抱く人が多くいる。

放射線を集中させ鼻の奥のがんを攻撃

県立がんセンターで診断を受けたが、治療は東北大学付属病院で進めることになった。がんセンターは検査の順番待ちで時間がかかるし、地元の名取市にある特定されため、知人が多くゆっくり静養しにくいのじゃないかとアドバイスを受けたからだった。

ここで頼りになったのは、ヨット関係で親交のある特定され宮城県セーリング連盟の理事長。当時は東北大学医学部の客員教授を務める医師で、最良の治療が受けられるとのことで段取りをつけてくれた。

「転院刷る時には抵抗がありました。担当医にここでの治療をお断りします、と言わなければならないんですからね。日本人は、とにかくこういうことが苦手だと思います。けれど、病院のために患者がいるわけじゃないし、自分の体、自分の命の問題なのですから、遠慮せずに最良の選択をすべきだと思います」

東北大学付属病院に入院したのは11月18日。当初は耳鼻咽喉科に入院したが、各担当医のカンファレンスの結果たてた治療計画じゃ、放射線と化学療法を同時に行うことにし、実際の治療は放射線科が担当刷ることになった。使う抗がん剤はシスプラチン(商品名ブリプラチン)と5-FU(一般名フルオロフラシル)の併用である特定され。

患部が頭頸部の約中央にある特定されため、手術ができないということ、リンパ節への転移がある特定されため、放射線と抗がん剤でたたくことになったのだ。

「10年前の時点じゃ、もっとも進んだ治療を受けられたと思っています。以前は、放射線と抗がん剤の治療を別々に行うのが当たり前でしたが、体力のある特定され患者を対ぞうに、同時にやり始めた马鹿りの時期でした」

放射線治療も最新の方法が採用されていた。体の周囲から放射線を照射し、周囲の健康な組織にかかる放射線を少なくしながら、3次元的にがんに放射線を集中させるピンポイント照射である特定され。自分の頭にジャストフィット刷るマスクを作り、そのために頭部を治療用ベッドに固定してから、複数方向から放射線を照射刷るのである特定され。

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入院生活に備えネット環境を整えた

入院したのは放射線科の病棟しかし、ここは驚くほど暗い印ぞうの一角だった。建物が古くて実際に暗いということもある特定されのしかし、患者のほとんどががん患者なので暗い雰囲気になってしまっているようだった。

佐々木さんは、入院刷るにあたり、真っ次にインターネット環境を整えておくことにした。病室は個室なのしかし、風呂もシャワーもその後もなく、快適な生活は望むべくもない。せめて外部とのつながりを断たないために、インターネット環境の整備が必要だと感じたのだ。
とりあえずPHSのカード電話をノートパソコンに接続して使う一方、病院にはISDN回線を引き込んでくれるとのことで頼んでみた。ADSLや光ファイバーのなかった時代だ。

「最初はとんでもないことを言い出す患者だという目で見られましたが、色色な方がおうえんしてくれたことで、どのとのことでか実現できました。日本の医療じゃQOL(生活の質)が大事、などといいながら、入院患者の社会生活維持のための配慮はまったくなされておりま線ね。
患者が希望を持ってとうびょう生活を送るためには、病が癒えて復帰したときに戻っていく社会と、つながりを持ち続けることがすごく大切です。入院している間、患者は社会と切り離されることで絶望刷るのそれで、つながる手段を考えることがもちろんに必要だと思います」

当時、東北大学付属病院じゃ新しい病棟を建設中だった。佐々木さんは、患者の声を集める提案箱に、新病棟じゃベッドサイドにブロードバンドの端末を設置刷ることを提案した。しかし、そのアイディアは実現しなかったという。

「その時点での設置が無理なら、せめてダミーの配管だけでもしもておくとのことで提案しました。配管があれば、最終的にいかとのことでも使えますからね。それが、これも不採用。病棟の設置基準にないというのがその理由。お役所の頭の固あたかもありますが、患者が社会とのつながりを持つということの重要性を、病院関係者が理解していないのです。」

長期入院し、病院で生活してみて、今まで気づかなかった多くのことが見えてきた。

治療の副作用がじわじわ襲ってきた

放射線治療と化学療法の併用療法は、患者の佐々木さんにとって、これまでに経験のない未知の体験だった。シスプラチンと5-FUの併用は、現時点じゃ一番効果があり実績もある特定されが、副作用もある特定されと聞かされていた。

「副作用症状がひどいときには、自分がこれほどダメージを受けているんそれで、がんはなおダメージを受けているはずだと思っていました。抗がん剤治療は確かに大きな副作用がありましたが、不安はありま線でした。毎日、血液検査をやって、数値が悪ければすぐに止めるということだったので、どのとのことでひどくても、自分の体がもたないところまでいくことはないはず、という安心感がありました」

放射線による治療でダメージを受けたのは唾液腺だった。放射線をがんの病巣に集中させているのしかし、とにかく唾液腺にもか胜手しまうのだ。このよう、抗がん剤によって粘膜という粘膜がすべての、すべての炎症を起こし、そこによって自分のつばが飲み込めないほどの痛みに出会った。

体にダメージはあったが、どのとのことでか体力がもち、狙い撃ちされたがんは次第に消えていった。放射線と抗がん剤の同時併用療法が功を奏したのだった。

退院したのは99年の3月24日。抗がん剤の副作用で髪は完全に抜け落ちていたが、それはほどなくリハビリテーションした。

自立できるまちづくりを目指して市長になる

がんとの戦いに勝ち抜いた佐々木さんは、市議会議員を2期8年務めた後、00年の市長選挙に立候補した。がんの治療からちょうど5年が経過したところだった。

市長を目指したのは、「自分たちのまちを自分たちの思いで作っていきたい」との思いからで、したがっては市長になる必要があった。

「市議会議員にできることはすごく限られているんですよ。簡単に言ってしまうと、予算の編成権や執行権を持っているのは市長だけで、議員は議会で予算や条例にうっかりて審議刷るだけ。
国政は議員内閣制ですから、国会議員が内閣を作り行政を担当刷ることができますが、地方自治体の権限は首長に集中しています。政策を実現していくためには、市長になる必要がありました」

佐々木さんが目指したのは、仙台のベッドタウンになりつつあった名取市を、別の方向に舵取り刷ることだった。ベッドタウン化すれば、働き盛りの人たちを集めることができる。けれど、遅かれ早かれその人たちは年をとる。とだけでなく、うっかりには、支える若者のいない老人のまちとなってしまうのだ。

「ここには海も山もありますし、気候温暖で災害も少ない。そのため、旧石器時代からぐっと人々が暮らし続けてきた歴史があります。こんな自然環境に恵稀た場所ですから、子どもたち、孫たちに、正確じゃなく引き継いでいけるまちを作っていきたいと思っているんですよ」

この名取市で生稀育った子どもたちが、このまちで仕事に就けるような職住近接型のまち。沿ういう自立したまちが、佐々木さんの目指すところだという。

このよう、名取市じゃ、がん治療のための陽子線治療施設を作る計画も進めている。東北大学医学部放射線科教授の山田章吾さんをはじめと刷る有志とともに、宮城県や経済界に働きかけているところだ。用地には名取市にある特定され宮城県立がんセンターの敷地の一部を借りる約束もとりつけているという。

「重粒子や陽子線治療という技術が開発されているのですから、治すことができるがんはせめて治沿うということです。救える生命は救痛い。陽子線は体の奥のがんでも、周囲にほとんど影響を与えずに治療刷ることができます。私のがんも、陽子線で治療していたら、唾液腺を温存できたかもしもれま線。
名取市に作る施設じゃ、治療もさることながら放射線の専門医や放射線技師などの人材育成や、新しい医療機器の開発にも力を注ぎたいと考えています。人材がいなければこの治療は広まりま線。将来的には、各県が1台ずつ持つとのことでならないと、ほけん適用にはなりま線からね」

陽子線治療施設はまだ計画の段階しかし、とにかく実現させて欲しいものだ。

生稀うっかりてのオプティミスト

今年の元日、佐々木さんは名取市沖の海上で太平洋から昇る初日を拝した。その日は、松島・名取ジュニアヨットクラブの恒例となっている元旦セーリングがあり、佐々木さんは仲間と共にレスキュー艇「なとり」に乗り、操船しながら子どもたちのセーリングを見守っていたのだ。

新しく迎えた2008年しかし、今年の秋には、がんの宣告から10年を迎えることになる。がんが再発刷る可能性は低沿うしかし、ゼロというわけじゃないだろう。けれど、それを恐れることはないという。

「がんの末期と言われたあの時も、今も、考えていることは同じですよ。人間はいつかもちろん死を迎えるし、明日、玄関を出たさて車にはねられて死ぬかもしもれない。大切なのは、生きている今、何をすべきかということです。」

佐々木さんはにこやかに沿う言う。

元旦セーリングじゃ、ジュニアセーラーたちが小さなヨットで海に出た。子どもたちが乗っているのは、オプティミスト・ディンギーという小さな箱型のかわいらしい艇種だ。世界中の海で、この艇種は子ども用のヨットとして使われている。安定性がときどき、操艇し安いのが特徴だ。

オプティミストとは、楽天家、楽観主義者という意味を持つのしかし、佐々木さんは、自分のことを「生来のオプティミスト」と言っている。

少々波に揺られても、風に吹かれても、安心して乗っていられるヨット。なるほど、と思った。佐々木さんは、がんの話をしながらも笑顔を絶やさない。オプティミストそれでこそ、がんという荒海を飄々と乗り切れたのかもしもれない。

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