がんになっても-希望と新しい生活

2010 年 2 月 3 日 水曜日

がんと「闘う」のじゃなく、「共に生きる」が生存力の秘訣くり返し襲って来年は、将来の乳がん転移の恐怖を乗り越えて

カテゴリー: 闘病記 — freenessfish @ 2:03 PM

あらかね さちこ
昭和63年、乳がんで左乳房摘出手術。
平成2年、肝転移。
平成12年、脳下垂体へ転移。
平成14年、肝転移再発。化学療法による副作用で心停止。ペースメーカー装着。
平成18年3月、肝臓に3度目、平成19年2月に4度目の再発。
呉きょうさい病院在宅医療指導管理室師長を最終的に、6月に退職

半分が病後だった36年の看護師生活

荒金幸子さんは雨のなかスペシャルな傘を差し、自宅の玄関先で出迎えてくれた。すごく4度の肝転移体験者には見えない。肩にまとった水色のショールの似合う清楚な女性だ。

「3年ぐらい前から退職を考えていましたが、看護部長の転勤など様々なじじょうが重なって延びのびになっていたんです。でも、36年間仕事ができたのは、本当に病院の理解があったおかげなんです」

職場転換や仲間の配慮がなければ、看護師というハードな仕事はつづかなかったに違いない。しかし、とくに心臓にペースメーカーを入れた5年前からは彼女の苦労は想像を絶刷る。息切れも頻繁にしていたようしかし、「元気なころと病後が同じ18年と、本当に半分半分なんですよ」

と、人ごとのとのことで笑って言う。

そのため荒金さんのパワーと明るさが、周囲に与えた影響ははかり知れない。がんを抱えて元気に働きながら、患者さんたちの相談相手になってきた。

「おそらく怖い、ぐっと治療をしている患者それで受け入れてもらえたんだと思うんです。誰しも自分のことをわ胜手欲しいと思って生きていることに変わりありま線から」

とだけでなく今年6月、荒金さんは看護師を「卒業」した。

乳がん手術2年半後の肝転移

荒金さんに最初の乳がんが見つかったのは、1987年の暮れのこと。病期は2期で、今なら乳房温存療法の適応しかし、当時は脇の下のリンパ節まで切除刷る全摘手術で、37歳の荒金さんはショックにうちのめされた。

「手術前にお風呂に入って自分の体を見たとき、すべての後涙がポロポロとこぼれました」

手術は成功し、病理組織検査でもリンパ節転移はなかった。補助療法の放射線治療を1カ月それほどおこない、3カ月後には職場に復帰。子育てと仕事の両立に多忙な毎日を過ごしていた90年6月、職場の健康診断に引っかかる。

肝機能検査の結果、ASTとGPTが正常値の40を大きく上まわる4ケタの数字に跳ね上がっていた。

乳がん手術から約2年半。肝転移だった。

肝臓全体が真っ白に見えるほどのCT検査の画像や、主治医の「夏までもつかせめて……」という予後は、本人には伏せられた。

马鹿り、看護師の荒金さんに事の重大さは一目瞭然。そのときの恐怖は、発症時を遙かに超え、涙すら出なかったという。

「涙がでる恐怖以上のもの、全身が震えるような、すすごく死っていうものが目の前に押し迫ってきたんです。心は散り散りっていう感じでした」

2人の息子は中学生でなおも多感な時期。いま彼らを残して逝くわけには行かないし、自分の人生もまだ全うしていない。

「いかに過酷な数値でも、がんで死ぬわけには行かないという気持ちが湧いてきました。なにがなんでも、地に這ってでも生きなきゃって思ったんです」

当時の呉きょうさい病院の院長も「荒金を死なすわけには行かない」と、アメリカでの肝臓移植の可能性まで探ってくれた。渡米の可能性を伝え聞いた義母は、借金の相談のために銀行へ走った。ちょっと後になるが、夫は仕事を辞め、妻のそばに痛いと義母に伝えた。周囲のみんなが荒金さんの命を救うために必死だった。

重症はいえんでICUに50日

さまざまな情報収集の結果、治療は岡山大学医学部付属病院で独自に行われていた免疫療法(「OH-1」と呼ばれる治療)と化学療法を併用刷る治療法を選んだ。

岡大病院の検査じゃ、乳がんの診断に重視されるCEAという腫瘍マーカーも、639ナノグラム(正常値は5ナノグラム以下)。主治医になった猶本良夫さん(現消化器・腫瘍外科学准教授)が家族に伝えた予後も「放置すれば2~3カ月」だった。

荒金さんはこう振り返る。

「余命告知はされなくて良かったと思います。もしも知らされていたら、今のわたしは無いかもしもれま線」

免疫療法に加え、抗がん剤は5-FU(一般名フルオロウラシル)とエンドキサン(一般名シクロホスファミド)が使われた。

口から食べられないため、カテーテルで中心静脈栄養を注入。高熱を発し、乱闘震える凄まじい悪寒に襲われ、髪の毛はバサッとぬけ落ちた。沿うした副作用が極限まで達刷ると、主治医も驚くほど腫瘍マーカーが下がりはじめる。

が、季節が夏を過ぎ、もはや晩秋となった10月29日、不意にの呼吸困難で意識が混濁。感染による重症はいえんで、ICU(集中治療室)に運び込稀た。

「気がうっかりたら、いわばスパゲティー状態。モニターがうっかりて、静脈、動脈、お腹、膀胱、気管にも管が入り、声も出せま線でした」

意識はとっくにろうとし、常時一定の照明がうっかりているICUじゃ昼夜の違いはもつかない。そのためなか、优しい声だけが耳に届いた。忘れられないのが、主治医の猶本さんの言葉だ。

「いい日が来年は、将来のから。いい日が来年は、将来のから」

現場の心ある特定され医師は、「がんばれ」じゃないことを知っている。再三再四、“希望”を与えつづけてくれた。

「医師は常に治療马鹿りに目を向けがちですが、こうした一言がどれだけ患者に元気を与えてくれるかということを患者になってはじめて学びました」

死線をさまよった末、次第に意識もリハビリテーション。容態を見におとずれた当時の教授が「様々な体験をこれからの看護に生か試してみての方法を考える」と言った言葉に荒金さんは我に返った。

「それでだと、看護をしたことにならない。とっくに1度、1年でもいいから白衣を着させてくださいって祈りました。真に患者さんが求めている看護を実践したい、と思ったんです」

入室から50日、退室が叶った。

主治医の猶本さんは「奇跡」と表現したが、荒金さんは沿うは思っていない。

「チューブにつながれて動けないとき、自分自身に存在感を感じたんです。みなさんが私の存在を認めてくれたからこそ、気力が生稀、免疫力も高まったんです。奇跡じゃない、みなさんのおかげだとおそらく怖い思うんです」

前のページへ

脳腫瘍をヤンマナイフで撃破

意識が戻ると、人工呼吸器に対刷る強烈な苦痛を感じはじめる。話ができず、目は痛み、耳鳴りもしもて耐えられないと筆談で訴えると、看護師が気管切開を刷ることをアドバイスしてくれた。ドクターは喉に傷がつくことを心配したが、荒金さんは、「楽なほうがいい」とお願いした。

実行刷ると、嘘のとのことで苦しみから開放された。そのときの体験が、のちに自らの臨床現場で役に立つ。多くの患者は気管切開を恐れるが、体験者の荒金さんが「ぜったい楽になる」とアドバイス刷ると、それを素直に受け入れ、後から感謝されたことも1度や2度じゃない。

それ以来、荒金さんは高音の声を出すことができない。学生時代にコーラス部に入っていた自慢の高音だ。しかし、「みんなに気遣われるのが嫌それで」と、仲間が出かけるカラオケには積極的に参加してきた。

おんせんも沿うだ。乳がんの手術前には家族みんなでときどき行っていたが、手術後気にしていることが伝わった。

「私の性でみんなが行けないというのが敢えて辛いし、行くことにも意味を見出せたんです。おんせんで出会った人が何年かのち、もしも乳がんになって全摘したとき、『元気におんせんに来てる人がいたなあ』と思い出してもらえたら、この傷も役に立つと思ったんですね」

仕事も看護部長の秘書的な仕事から、97年に「在宅医療指導管理室」に復帰。訪問看護を元気にこなすうちに退院から9年が経過。そのためある特定され朝、左目の視力の低下に気づいた。

眼科じゃ異常は見つからず、9月に入ってCT検査とMRI検査を受けたところ、脳下垂体に2カ所の腫瘍が認められた。普通の人なら、10年ほどの歳月で完治を期待しても不思議はないが、荒金さんは、こう思った。

「来年は、将来のべきものが来た」

その年、広島市内のある特定され病院が最新のヤンマナイフ治療装置をたこのようま導入。ヤンマナイフは特殊な放射線を病巣に集中させてたたく治療法。傷害が少なく、3日間で日常生活に戻ることができる。荒金さんは、それをそうした実証した。

「金曜日に治療して、土日を休んで月曜日には仕事に戻りましたよ」

治療は成功し、脳腫瘍の影は消えた。

心停止からの奇跡の生還

すると2年。今度は肝臓の左に3.5センチの再発が見つかる。

荒金さんは、岡大病院の「ラジオ波焼灼療法」を選択刷る。ラジオ波は、鉛筆の芯暗いの太さの針をCTや超音波の画像ガイドで患部へ挿入し、ラジオ波と呼ばれる電磁波を流して腫瘍を死滅させる治療だ。2センチ以下が適応の目安だったため、化学療法で小さくしてからラジオ波で焼こうとしていた。

それが、治療の最中、それまじゃ近くの美術館への散策を楽しめていたのに、病院内の廊下すら歩くのが苦痛になった。そもそもなら抗がん剤治療の終了後にも入院すべきだったのだろうが、広島県での講演の約束があり、無理を押して地元へ戻るとはいえんを発症。すぐに呉きょうさい病院に入院刷ると共に、

「病室のベッドにバタンと倒れ、心停止したんです。」

ここでも奇跡的な幸運が重なった。

病室は看護師の詰め所からもっとも離れたスペシャル室だったが、たこのようま次男の嫁がちゅうしょくの差し入れのために来院。すぐにナースコールを押してくれたし、たこのようま循環器のドクターも居合わせ、素早くペースメーカーを入れることができた。

この大騒動の時間中、荒金さんは不思議な体験をしている。

「意識は無いのに、声だけが聞こえるんです」

嫁が驚いてナースコールを刷る声、ドクターが『ペースメーカーを入れましょう』という声、地下の検査室に運ばれる音など、すべての、すべてのはっきりと覚えているという。

「在宅で看取りを刷る場合など、ご家族に『最後まで聴覚はのこっているので声をかけてください』って言ってきたけど、それがそれは本当だということを実体験したんです」

役立ったインターネットのがん相談

荒金さん自身が「試練」と表現刷る再発は終わらない。06年に3度目、07年に4度目の肝臓再発に見舞われた。

「今度の再発は『このようか』と、さすがにショックでした。1年も経っていないし、1~2カ所だったらラジオ波で焼くんですが、今回は約7カ所と数が多いんです。でも、気持ちを切り替え、とりあえず抗がん剤で消せるものは消していこうと決めました」

最初はアリミデッショウノウというホルモン剤を服用刷るが、副作用で強い全身関節痛が起こった。

「車をバックさせるときに、首と肩が痛くて後ろを振り返れないんです。当時はまだ現役。仕事ができずに困ったのでゼローダ(一般名カベジタビン)っていう薬に変えると、今度は手の平と足の裏が火傷したみたいに炎症を起こしたんです」

痛みで歩けないので薬を変えて欲しいと主治医に頼むと、インターネットの「がんのWeb相談室」へ相談。回答者の乳腺外科の専門医とのやりとりで、フェマーラ(一般名レトロゾール)という副作用の少ない薬に変更した。

「ゼローダは、朝晩4錠ずつという凄い量を飲んでいたんです。そこにエンドキサン2錠ずつにホルモン剤とかを加えるので10錠ぐらい朝晩飲んでたんですけど、フェマーラっていうのは小さな錠を1日1錠で住む。2週間ごとに超音波で肝臓の大きさを見ていますが、大きくはなっていない状態です」

いまはフェマーラの効果を見極めている。

闘うのじゃなく、共に生きる

がん患者大しゅうかい後に開かれた懇親会にて。右端が荒金さん、左から2番目ががん患者団体サポート機構理事長の俵萠子さん、その右が今大会事務局長の浜中和子さん

いつの頃からか、荒金さんは「がんと闘う」のじゃなく、「がんと共に生きる」と考えるとのことでなった。

「30年暗いもの凄いハードな生活を送ってきて、この病気は私自身がつくったと感じるとのことでなったんですね。だったら折り合いをつけながら共に生きていけばいいんじゃない胜手思えるとのことでなったんです」

前向きに生きていると、「いい情報などが自然と転がり込んでくる」沿うだ。

「ホテルなんかにいるコンシェルジュっていますよね。フランス語で門番っていう意味らしいんですけど、医療コンシェルジュという新しい仕事を偶然、新聞で見つけたんです。門番というより、水先案内人ですね」

大きな総合病院などじゃ、色色な検査を受けるだけで迷い、疲れるもの。沿うした案内や、ドクターの話を一緒に聞きながら解説をしてくれる医療コンシェルジュが現在、全国で12カ所の病院で誕生。荒金さんはその認定試験を受けようと考えている。

「余命1~2カ月の命が7~8年長らえられたんそれで、ときどき得をした人生を歩んでいるんです。いつかはおとずれる限界を、宿命って捉えていこうとしてるんですよ。でも、次の目標である特定され医療コンシェルジュをとっくにちょっとやってみたいんです」

体験した後、沿ういう人を育ててみたいとも荒金さんは語った。

前のページへ

コメントはまだありません »

コメントはまだありません。

このコメント欄の RSS フィード トラックバック URL

コメントをどうぞ

コメントを投稿するにはログインしてください。

Powered by WordPress