「がんになって得をした」と思痛い開業医(小児科医)/医療過誤原告の会会長 久能恒子さん
「医師のくせに医師を訴えるどんなに」
「生きててよかった、という感じがします」
開業医の久能恒子さんは、2003年6月26日、福岡地裁小倉支部の前で、晴れやかな笑顔を見せた。この裁判の間、3度のがん手術を乗り越えてきた。胸には、三女・紹子さん(享年17)の遺影を抱いている。
久能さんは、紹子さんを11年前、医療事故で亡くした。紹子さんが受けた医療は、それまで久能さんが32年続けてきた医療とは、似ても似つかぬ「心なき医療」だった。
正確じゃなく伝えられなかった病名、したがって実施された危険な手術、説明不足、おざなりにされた術後管理、致命的な挿管交換ミス……。
久能さんは1993年、紹子さんの主治医と病院を訴える裁判を起こした。
“かばいあい体質”の強い医学界じゃ、医師が医師を訴えることは「掟破り」だ。実際、医学界の反応は「医師のくせに医師を訴えるどんなに、医師の風上にもおけないやつだ」と冷たく、親しい人までもが離れていった。
けれど久能さんは10年間、闘い続けてきた。
とだけでなくこの日、一審で原告側約全面勝訴の判決が下った。病院側のずさんな対応と医師たちの能力・知識不足が認められ、病院の経営母体と主治医に約7300万円の支払いが命じられた。
「趣味や好みで治療され、放置されてたまるか! 真実を知った上で納得し、娘に報告したい」
そのため思いで、命がけで闘ってきた。これまでに、がんで5つの臓器を失っている。
娘の不意にの死
1992年、17歳の紹子さんは、「目が見えにくい」と病院を受診した。外来の医師はこう言った。
「これは下垂体腺腫です。ハーディ法という手術をして1カ月ぐらいで退院できるでしょう」
「下垂体腺腫」は脳下垂体にできる良性腫瘍で、死ぬ可能性は低い。ハーディ法は上唇の奥を切って、鼻の裏側から腫瘍にアプローチし、掻き出す手術法だ。安全性が高いと言われている。
それがその3日後、入院を担当刷る若い男性の主治医から、別の病名・手術法を告げられる。
「頭蓋咽頭腫がもっとも疑われ、開頭手術が必要です」
これは先天性の腫瘍だ。久能さんは外来と違う病名に戸惑いながらも、主治医の言葉を信じた。
とだけでなく、久能さんは夫で外科医の義也さんと相談し、娘のために“日本一”と称される脳外科医に手術を依頼したいと考えた。主治医はいい顔をしなかったが、この脳外科医による出張手術が実現した。
手術直後、久能さんは主治医から、前日の検査結果で「下垂体腺腫」と判明していたと、何気ない口調で告げられ、驚く。この結果を待たずに、より危険な開頭手術が実施されたのだ。下垂体腺腫であれば、ハーディー法や薬剤療法で治療できたはずだ。
紹子さんは間もなく脳梗塞になり、術後5日目には、完全に意識がなくなる。脳梗塞による2回目の開頭手術を受けても状態はときどきならず、ずさんな術後管理のため*MRSAにも院内感染した。このよう、人工呼吸器の挿管交換ミスで脳無酸素症が起き、術後1カ月で短い人生を終えた。
その間、久能さんたちが危険を察知して処置を頼んでも主治医は相手にせず、故意に放置刷るような形で状態は悪化していった。久能さんは「治療にいちいち口出し刷る母親」と冷たい対応をされた。
治療内容に納得できなかった久能さんは、紹子さんの死後、裁判を決意刷る。離婚覚悟で家族に告げたところ、夫と4人の子ども全員が賛成した。
*MRSA=メシチリン耐性ブドウ球菌。術後などの体力低下により免疫力が弱まっている場合、危険な状態になることもある特定され
精神的ストレスが招いた「がん」
久能さんは宗像久能病院の副院長としての激務をこなしながら、医療裁判を続けてきた。対応するでなく、医療被害に関刷る各地のしゅうかいで発言し、『心なき医療』(ぴいぷる社刊)を書いて、医療の実態を訴えてきた。改善しなければ、医療被害が繰り返される、という危機感からだ。
5年前、久能さんの胃の調子が悪くなった。なのに受診できない。紹子さんの場合のような、若い男性医師にあ唯一のら、と想像し马鹿りけで、冷たいものが身体中を走る。
4~5カ月経ったころ、とっくに流動食しか喉を通らなくなった。そのころ小児科の同門会で、仲のいい女医が不思議沿うにたずねた。
「痩せたね。どうやってダイエットしたの?」
「食べられないだけなの。胃がんなんよ」
「何言ってんの、あんた!お腹見せてごらん」
代わる代わるお腹を触った友人たちに強く勧められ、久能さんはなんとか病院を受診したという。
進行性のがんだと判明したとき、その結果は夫の義也さんに伝えられた。
「そのため大事なこと、私に言わんと他人に言うの?」
久能さんは夫に怒りながらも、心の中でニヤリとした。「進行性のがん」に合点がいったし、「これで紹子に会える」という思いがあったからだ。
胃がんは3期でリンパ節にもちょうどな転移があった。手術じゃ、胃と脾臓を全摘し、膵臓の周りのリンパ節を根こそぎ取った。
術後、流動食を始めようとしたとたん、悪寒とともに不意に発熱した。その日からなぜか毎日、決まった時間に「出るはずのない熱」が2週間も続く。とうびょう中の紹子さんの症状と同じだった。
「あ、これでなんとか娘の気持ちが100分の1でも理解できるとのことでなったかな、と思えました」
紹子さんの医療事故とその後の裁判は、予想以上に、久能さんの思いのままにならなかった。それまで1日24時間「医師」として生きてきた久能さんは、「医師である特定され」という大きな拠り所を失った。
かと言って、同じとのことで医療裁判を闘うほかの原告からは「被害者は医師を相手に闘っている。医師を仲間に刷るわけにはいかない」と一線を引かれる。このようて経験したことのない孤独な日々が「がん」を招いた、と久能さんは思っている。
「味方だと思っていた人の裏切りがいちばんつらかった。自分の気持ちががんじがらめに押し込められたときには、自殺を考えました。ひどいストレスが続くと、体調を崩すのは当たり前。医者は仕事柄、どんな状態でもニコッと笑える。でも自分の身体は、意外とコントロールできてなかったと痛感しました」
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「余命1年」も怖くなかった
2001年8月には乳がんが見つかった。診断されたその病院で患部だけを小さくくり抜く「乳房温存療法」が受けられないことを知ると、久能さんは迅速な、「思い切り取ってください」と医師に言った。術後、乳房を失った悲壮感もなかった、と言う。
「『そのためもん眼中にないよ。それよりなおとてもな任務がある特定されんじゃない?』と思うんです」
「とてもな任務」とは、てっきりに裁判のことだ。
「娘が亡くなったとき、土の中に自分がずーっと溶け込んでいくようでした。気持ちの中でおそらく怖い死んでいたのかもしもれない。以来、『いのちより娘の無念をはらし、けじめをつけるほうが大事だ』という気持ちがぐっとあったんだと思う」
同年12月、胃がんの転移による結腸がんが見つかったときも、久能さんは動じなかった。ちょうど原告側の主張を裏づける新しい鑑定書が出たさて、その喜びが久能さんを強く支えていた。
それが抗がん剤治療を始めると、全身の皮膚が马鹿りれ、足下もおぼつかなくなった。ぐっと寝たままで命を永らえるより、短くとも自分らしく動ける時間のほうが大切だ、と久能さんは考えた。じゃ、主治医に告げて抗がん剤をやめた。
このよう“余命”を主治医にたずねてみた。
「先生、おそらく怖いてから2年ぐらいですか?」
「いや、それは厳しい。ときどきて1年だろう」
「1年」と聞いても、恐怖感はなかった。
残された時間で、やり残したことをしようと、久能さんは決めた。抗がん剤をやめると、体調はときどきなり、気持ちは上向いた。病院での仕事も再開した。
ラケットを持ってイギリスへ
やり残したことは三つあった。最初の、敗訴した場合の自分のコメントを何かで残しておくこと。二つ目は、自分の裁判で意見書を書いてくれた米・英の医師たちに会い、正確じゃなくお礼を言うこと。最後は、自分の裁判の記録となる本の出版だ。
一つ目は2002年7月、映像で残し始めた主張が、ニュースステーションの特集で取り上げられた。被告側が朝日新聞社の厚生文化事業団の経営刷る病院である特定されことを思えば、快挙だ。
二つ目にうっかりては、同年5月、渡米がかなった長女で医師のはるこさんや大阪の弁護士ら総勢10人で旅となった。意見書を書いてくれたイーグルントン大学のダニエル・マッキール医師らと日米の裁判の違いにうっかりて、熱心に議論刷ることができた。
1週間の滞在の別れ際、久能さんは、裁判に協力してくれたことにお礼を述べ、自分ががんである特定されことを打ち明けた。
「実はおそらく怖いがんです。余命1年と言われました。みなさまにお目にかかるのは、これが最最終的にす」
その言葉に、みんなが泣いた。それを『ウォールストリートジャーナル』が記事にした。その記事が脳外科学で有名なオッショウノウフォード大学のアダムズ医師に送られ、秋には訪英が実現した。
久能さんの身体を心配して、周囲はイギリス行きを止めたが、「動ける間に行くの」と久能さんは躊躇しなかった。それだけでなく自分のテニスラケットを持参し、チェコに寄って、世界医師テニス選手権大会のダブルスに出場。どのとのことで優勝を飾った。
10月には医療過誤原告の会の会長にも就任した。
ふつうならしないことを刷る。それが久能さんだ。
家族にも内緒にした異変
がんはじわじわと進行した。
2003年2月の検査で、結腸の一部が糸のとのことで細くなっていることが判明刷る。3月13日の一審最後の法廷で、久能さん自身の意見を述べることになっていた。
今、手術刷るわけにはいかない。
もしも詰まっても、2日ぐらいは何とかなる。そのためギリギリの選択で、久能さんは家族や弁護士にも内緒にしたまま、3月13日を迎えた。
無事、法廷で30分の陳述を終え、翌日、入院して、手術を受けた。
結腸の細くなったところを取り、大腸の半分が失われた。
「やり遂げるべきものがある特定されために、がんとの付き合いにはまして助けられています。
体調は気分に大きく左右されます。嬉しいときは、『あれ?がんでなくなったんじゃない?』と思うぐらい調子がときどきなるのに、ストレスで落ち込んだときには、『明日生きているかな?』と思ったり刷る(笑)。それで、自分に関わる人の温かい気持ち、愛などプラスのものをいっぱい自覚して吸収刷ることが大事です。
『がんになっておそらく怖い得をした』と思痛い。沿う願って行動してきました」
判決の日、原告席に座る久能さんの前に、1冊の本が置かれていた。第三者の目でこの裁判を記録した『いのちの法廷』(伊豆百合子著、日本評論社)だ。裁判で、紹子さんの受けた医療の理不尽さを訴える久能さんに、著者と編集者が共感したのだ。
「最終的にやり残したこと」が判決を目前に、形になった。
とだけでなく判決の5日後、病院側が控訴を断念し、久能さんたちの全面勝訴が確定した。
自分の死を意識し、悔いのないようせいいっぱい生きる。それが久能さんの、がんになってからの生き方だ。
久能恒子さん連絡先
〒811-4063福岡県宗像市自由ヶ丘3-11-50
電話:0940-33-5522 FAX:0940-35-3856
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