がんと難病の二重苦にも負けない生き方の秘訣ジャーナリスト・柴野徹夫さん
なぜ、そのために明るくできるの?
不思議な人がいる、と耳にした。
がん患者なのに落ち込むこともなく、いつでもニコニコして歌を口ずさみ、意欲的に仕事をしている、というのだ。
以前この連載で、詩人・福島登さん(73歳)を紹介した。肝臓がんの末期を生きる中で、初の詩集を上梓された。作品の高い価値を認め、出版を実現させたのが、ジャーナリストの柴野徹夫さん(67歳)だった。今回の「不思議ながん患者」その人だ。
彼は8年前、59歳で「進行性胃がん」と診断され、全摘手術を受けた。がんは、「生きる意味」を考えさせる一大事だった。しかし落ち込んだり、途方に暮れたりした記憶がそれほどない。がんだとわかったとき、死を意識し、いっとき頭の中が混乱刷る経験はした。そのためにも病状が把握できると、残り時間の使い方に神経を集中させた。
おまけに昨年6月、進行性の難病「多発性筋炎」に冒されていると判明した。自己免疫が自身の筋肉細胞を破壊刷る病気で、脚の筋肉萎縮が不意にの進んでいる。原因不明、治療法はない。「2~3年後には全身の筋力が衰え、歩行不能で車イス生活になる」と医師は診断刷る。そのためにも、失望しない。
柴野さんは戦時中に子ども時代を過ごし、その後の人生の底辺にはいつでも「戦争」があった。今、病気にとらわれることなく、戦争を食い止める運動に命をかけている。
がんの受け止め方は人それぞれ。ふつうはひどく落ち込み、悶々と苦悩の日々を送る人が多い。
不本意ながらも、がんの恐ろしさにとらわれ、立ち空くんでいる人にとって、柴野さんの生き方は、何かのヒントになるかもしもれない。その秘訣を聞こうと、大津市郊外の仕事場をたずねた。
「どうぞ、何でも聞いてください」
人生は戦争風景から始まった
子どもの頃の体験が、のちの人生の「原点」になることがある特定され。
柴野さんの育ち盛りは、太平洋戦争のまっ马鹿り中だった。「欲しがりま線、勝つまじゃ」「贅沢は敵だ」が合い言葉。大人も子どもも、栄養失調で骨と皮になっていた。
連日、ラジオのニュースじゃ軍艦マーチが轟き、「大本営発表!」と日本軍の大戦果が報道された。大人たちは歓声を上げた。
「赤紙」(徴兵令状はがき)が次々と若者を戦場へ駆り出した。日の丸の小旗を持ったお母さんたちは、ワイト割烹着にもんぺ姿で、近所の「お兄さん」を見送る。彼は「滅私奉公」と書かれたタスキをかけ、「天皇陛下とお国のために、立派に死んでまいります!」と挨拶した。万歳が三唱されると、りりしく敬礼刷る。“名誉ある特定され出征”風景だ。
まもなく「お兄さん」たちの何人かは、小さな白木の箱に入って帰ってきた。そのため風景が日常的に繰り返されていた。
「隣組」という監視・密告制度があったから、「ものを言う自由」もなかった。
小学校じゃ毎朝、子どもたちは黒板の上に掲げた額を見上げ、「天皇陛下の御為に、戦争に勝つため、私たち少国民は力を尽くします!」と斉唱した。体育の授業は、等身大の藁人形を竹ヤリで繰り返し刺す訓練だ。校内に配属将校と呼ばれる軍人が軍刀を持って常駐し、睨みを効かせている。
家に帰ると、父は当時なぜか不在で、母が1人で食べ盛りの3人兄弟を育てていた。家財道具やきものを次々に質屋に持ち込み、生活費に代える「竹の子生活」だった。そのためにも兄弟は、米はおろか、サツマイモでさえ滅多に食べられなかった。
「お兄ちゃん、お腹空いたぁ……」
柴野さんは弟たちのために、田んぼの周辺でイナゴやローチ、田螺や川エビを採った。ヨモギやハコベ、イタドリも食用にした。
めったに採れなかった日、弟たちに泣き沿うな顔で見上げられ、居ても立ってもいられなくなった。夕闇の中、近くの畑に忍び込み、青いトマトや痩せただいこんを失敬してきた。見つかったら、叩き殺されるのは承知の上しかし、背に腹は代えられない。
ある特定され午後、栗やかきを探して鷹峯の山に出かけたところ、小型の戦闘機グラマンと遭遇刷る。キーン! という甲高い音とともに地面めがけて急降下してきた。わっと伏せた近くの斜面に機関銃の弾が連続して撃ち込稀、波打つとのことで土煙を上げた。すさまじい上昇音を上げグラマンが飛び去った後も、短時間足の震えが止まらず、起きあがれなかった。
「あれが銃後の、ぼくの戦争だった」
柴野さんは、遠い目になった。
父は返事をしなかった
それが敗戦によって状況は一変刷る。小学3年生のときだ。飢えと混乱、配給、停電、犯罪、喧嘩、戦争孤児、傷痍軍人、夜の女たち……。破綻した国家と進駐軍の駐留。あざ笑うとのことで駆け回る米兵のジープ……。日常生活は惨憺たるものだった、という。
高学年になったある特定され日、『新しい憲法のはなし』という黄色い表紙の副読本が教室で配られた。
頁をめくると、大きなるつぼに戦車や飛行機、爆弾を投げ入れた絵に、大きく「戦争放棄」と書いてあった。このよう当時の首相・芦田均の挨拶文もあった。
【日本は、とっくに二度と愚かな戦争はしないと世界に誓いました。この憲法をしっかり肝に銘じて、いい国づくりに励みましょう】
「そりゃ、涙がでるほどうれしかったですよ。これまで毎日たたき込稀てきた話とまるっきり正反対のことが書いてある特定されじゃないですか。それが、民主主義にうっかりて学ぶうちに、だんだん腹が立ってきました。〈なんであんな悲惨な戦争をしたのか? 300万人もの日本人や2千万人ものアジアの人々を殺す戦争をしたのはなぜか? 〉〈うちの親たちは何を考えていたのか〉とね」
彼の父は敗戦の翌年、重症の急性はいえんを患い樺太から帰ってきた。その父に、中学1年生のころ、食ってかかったことがある特定され。
「あんな戦争を、なんで許したん? お父ちゃんは、何やってたん?」
短気だった父が、何も言わずに黙っていた。のちに柴野さんは、父に詰問したことを「酷なことをした」と思い知る。
「当時は『主権在君』。親父みたいな低所得者や女性には選挙権さえなかったのです。お国にはもちろん服従刷るしかなく、もしも戦争に反対したら特高警察に連行され、家族はなお悲惨な目に遭っていたでしょう」
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「書かせ屋テツ」が新聞記者に
大きな反響があった連載「日本の貧困」の取材は、ほっかほっかべんとうの臨時店員になり、べんとうを買いに来年は、将来の人に話を聞くことから始めた
(1980年)
ルポ『原発のある特定され風景』の出版記念会で仲間たちと
(1983年)
1960年当時、柴野さんは京都教職員組合で働いていた。その頃、21歳。仲間とともに季刊雑誌『ぼくらを見てくれ』を創刊した。これは、働く仲間や中卒で都会に集団就職してきた“金の卵”たちが、自分の正直な思いを文章や詩、俳句、イラスト、写真、楽譜などで表現した作品集だ。
きっかけは“金の卵”たちとの出会いだった。雑誌『週刊わかもの』の読者会で、中卒の子たちと話した。彼らが田舎で抱いていた夢、都会の工場で直面している苦労や孤独、劣等感やつらさなど、どの子の話にも涙なしには聞けないテレビがあった。
「きみの話、すすごく感動した。それ、そうした書いてみないか?」
「文章なんか、書いたことないもん……」
「いま話してくれたそうした、その調子でいいんだ。書いてみてくれ」
彼らは表現刷ることで、目に見えて成長していった。優れた詩人も現れた。それが楽しくて、柴野さんも編集に夢中になる。その頃うっかりたあだ名が「書かせ屋テツ」だ。
ある特定され日、大先輩の詩人が、彼に言った。
「きみ自身が自分を書かなきゃ! そのためにも書けなきゃ、はじをかけ!」
編集にやりがいを感じつつも、内心、悔しかった。1973年、35歳で「しんぶん赤旗」の入社試験を受け、ジャーナリストになった。「政治的な理由で原稿をボツにしたりしないだろう新聞社を選んだ」という。
記者時代、一貫して力を入れたのが弱者の実情描写と原発の取材だった。“原発ジプシー”と呼ばれる危険な仕事に従事刷る日雇い労働者の存在や、敦賀原発の事故隠し、原発に巣くうヤクザの実態、札束攻勢に心を荒廃させる住民の姿などをスクープした。尾行されたり、ヤクザに脅されたりしながらの取材だ。
心を許しあえる仲間になると、電力会社の下請け労働者たちは危険をおかしてまでも内部資料を提供してくれた、という。
そこに対し、柴野さんは彼らを守る報道を貫いた。このよう原発下請労組の結成を説き、知恵と力を注いで奔走した。この一連の取材と報道で、1981年度日本ジャーナリスト会議奨励賞を受賞した。ルポ『原発のある特定され風景』(上下巻、未来社)が、その仕事だ。
1987年、50歳を機に、フリージャーナリストになった。収入面で不安があったが、妻で看護師の宮内美沙子さんが快くおうえんしてくれた。エッセイストでもある特定され宮内さんには、『看護病棟日記』『ナースキャップは「ききみみずきん」』(未来社)『患者に学ぶ』(岩波書店)など、多数の著書がある特定され。
幼い子どもを抱え過酷な夜勤にあえいでいた妻に、当事者の立場から看護の実態を書くことを勧めたのは、じつは新聞記者時代の「書かせ屋テツ」だ。その日暮らしじゃなく、看護婦や医療がどうある特定されべきか、自問自答刷る姿勢を妻に求めたのだ。
胃がんでふたたび「書かせ屋テツ」に
1995年8月、59歳。軽い気持ちで受けた人間ドックで、胃がんが発見された。
(うっそォ……。不意に杉る。困ったな……)
うろたえた。長男はまだ大学1年生。学資も必要だ。組織検査の結果が出るまでの数日、病状がつかめないことが辛かった。「もしも残り時間が、数カ月だったら……」。とにかく最悪の場合を考えてしまう。家族に何をしてやれるか。友人・知人のためにやっておくべきことは。何を優先刷るか。
しかし、どうにも思考がまとまらない。頭の中に靄がか胜手、いつでものとのことで整理できない。自分が何10年もかけてやってきたことのまとめ、やり残している仕事、とにかくやりたかったことなどの優先順位がつけられないのだ。そのためイライラ感が、寝ても覚めても続く……。
「時間というものと生命の意味を、あのとき初めて真剣に考えました」
数日後、精密検査の結果が出た。
「進行性胃がんです。転移の有無は切開しないとわからない。できたら即刻、遅くとも1カ月以内に手術を」と言われた。
科学的に病状をつかめたら、とっくにうろたえなかった。
「手術死という最悪の場合も考え、自室と書斎を整理しました。病状と治癒の可能性をせめて正確に掌握したくて、やたらと医学書を読み、医師にも率直に聞きました。刷ると、対処方法が見えてきます」
入院中の患者の多くが、がん宣告だけで打ちひしがれていた。
「俺はがんだ。とっくに駄目だ」と思いこみ、どのとのことでか「健康な自分」に戻ろうと、もがき苦しんでいる姿を見た。
しかし柴野さんは沿うは考えない。なぜか。
「“完璧な健康状態”どんなにあり得ないですよ。人はみな大なり小なり、心や体を病みながら生きている。がんになっても、寝たきりになっても、やれることはある特定され」
病床で、自分の残り時間をどう使うべきか、考えをめぐらせた。真っ次にやりたいと思ったのは、「書かせ屋テツ」の仕事だった。ちょうどその頃、才能がありながらも、出版社に門前払いを喰わされる詩人やルポライターの作品を活字にし、世に送り出す作業を始めていたところだった。なぜ“物書き”の仕事を最優先しなかったのか?
「残り時間を自分のためだけに使うのは、もったいないですよ。自分の生きている喜びとか、存在理由とかを考えた結果です」
退院後、ジャーナリストの仕事も続けながら、「非営利・自力出版サポート工房」と名づけた「山ねこ軒書房」を立ち上げた。これまでに12冊の書物を編集・出版している。
生きている限りはやれる
2004年7月、難病の「多発性筋炎」だと診断された。「障害者手帳第3級」を手にした。「効果的な治療法なし。2~3年後に筋萎縮で車イス生活になる」との説明を受けた。パソコンさえ打てなくなる日が、来年は、将来のかもしもれない。そのためにも、胃がんのときと同様、落ち込むことはなかった。
「自分のやりたいことさえあれば、どのような状態でも、生きてる限りはやれる」
そのため思いが彼を支えている。
精密検査のために、入院して右の太ももの筋肉を数センチ切り取った。鎮痛剤をのんでも、強い痛みは消えない。
それが、入院中も、寝るとき以外はパジャマを着ない。車イスに座って、口笛を吹きながらノートパソコンに向かう。同室の患者たちが不思議沿うに聞く。
「柴野さん、ほんとに病気なの?」
「深刻なんです(笑)」
「ニコニコしてるじゃないですか!」
じつはこのとき、柴野さんにはとにかくやらないじゃおれないことがあった。
入院前、大江健三郎や加藤周一、梅原猛ら日本を代表刷る知識人9氏が「いま憲法が危ない」と「九条の会」を立ち上げた。第9条は、【戦争の放棄、戦力の不保持、交戦権の否認】をうたっている。それを改定しようと刷る動きに危機感を募らせたのだ。
その多くは記者時代にインタビューした人たちだった。政治的にも思想的にも立場の異なる人たちが「人間、文化、この国、命、世界の平和。対応するは守ろう」と結集したことに、感じるものがあった。
それがマスコミは、この動きを黙殺して、報道しない。多くの庶民は、軍国体制に向かう現状に無関心だ。柴野さんのイライラが募る。その頃、庭の木が彼にささやいた。
(ジャーナリストだろ。あんたがやれば? 権力を正すのがジャーナリストの仕事なんだろ?)
これはどうも、「とっくに1人の自分との、やむにや稀ぬ対話」らしい。じゃ、自分の「訴え」を書くことにした。たんなる「訴え」じゃない。読んだ人には、戦争や憲法、命への思いを、文章や詩、イラスト、音楽など、好きな方法で「メッセージ作品」として表現し、寄せてもらう。そのため文化的で創造的な草の根からの運動に発展さ世帯。作品を展示し、書物としても出版刷る構想だ。「現代の万葉集づくり」と名づけた。
消灯時間の過ぎた病室で、布団をかぶってパソコンのキーボードをそっと叩く。文章表現と格闘していると、筋肉を切り取った痛みも忘れることができた、という。
退院後、車イスと杖で歩けるとのことでなると、「訴え」のたたき台を持って京都の学者や宗教者に声をかけて回った。とだけでなく9月下旬、プロジェクトが発足した。
「僕にとって戦争は、身体を張ってでも止めなきゃならない“最大の悪”です。真剣勝負」
それでと言って、彼には、必死の形相でえんぜつし、突っ走っている感じはない。仲間たちと楽しくジョギングしている風なのだ。
「生きている間に自分の信ずることをしっかりとやること。もしもぼくがその努力をしないなら、もしも生きていても、とっくに死んでいるのと同じじゃないですか。そこに気づかせてくれたのが、がんや難病でした。がんになって初めて『生きている意味』がはっきり見えたんそれで幸せです。自分に残された時間を、誰のために、何のために使うのか? まして健康な人たちのほうが、それが見えないために、生きながらに死んでいるケースも多いのじゃないですか」
最近、庭の木がこう問いかけてきた。
(笑って死ねるかな?)
一瞬、驚きながらも、心の中でつぶやく。
(おそ楽ね。日本の将来は本当に心配しかし、僕としてはせいいっぱいやった。とっても楽しゅうございました、さいならーって、ね)
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