「どん底」を味わったから、今、前向きになれるがん患者と家族の会「かざぐるま」代表・結城富美子さん
“余命は2週間から2カ月”
3年ほど前、沿う診断された末期肺腺がん患者の結城富美子さん(53歳)。そのリハビリテーションには、目を見張るものがある特定され。今じゃ、すごくふつうの日常生活を送っているのだ。
ショートヘアに銀縁眼鏡、きっちりとした身だしなみが、元銀行員らしい。尼崎市内の自宅で、夫・俊和さん(53歳)と長女・さやかさん(20歳)と暮らしている。長男・卓さん(26歳)はもはや結婚して、家庭を持っている。
結城さんの場合、がんが骨に転移し、つぶれた骨が脊髄神経を圧迫刷る激痛で身動きも取れなくなって初めて、「がん」の診断がうっかりた。その時見たMRIの画像は、医師も驚くほど「真っ黒」だった。「今は5月それで、来年の桜は見れないだろうな」と覚悟した、という。
4カ月間入院し、最初の1カ月は放射線治療を受けた。その頃、整形外科医は「一生寝たきりになるでしょう」とリハビリテーションに悲観的だった。そのためにも彼女は「退院したら私が家事をしなくっちゃ」と、リハビリテーションに励む。がん治療薬イレッサの服用で、骨のがんが消えた。
ある特定されとき、ひどく落ち込んでいたがん患者に自分の体験を話した。刷ると、その人の表情がみるみる変わり、別れ際には「私もがんばります」と明るい笑顔を見せた。これがきっかけで、結城さんはかかりつけの病院にボランティアを申し出て、週1回の相談活動を始めた。
とだけでなく2004年秋、がん患者と家族の会「かざぐるま」を立ち上げた。患者や元患者の家族、医師や看護師らが集まり、本音でとうびょうにうっかりて語り合う会だ。
「振り返ると、大きな道ができていました」
結城さんが微笑む。
「がん患者を迅速な元気づける体験談」を語ってもらった。
おかんが死んでしまう!
最初の“異変”は、背中の頑固な凝りと痛みだった。2002年1月のことだ。まもなく、自転車に乗ると、振動で頭のてっぺんにまで痛みが走るとのことでなった。立ち上がるのさえ辛くなる。整形外科じゃ「椎間板ヘルニア」と診断され、肺がんは見落とされた。湿布を貼り、ストレッチや散歩に励む日が続く。3月になると、熱とせきが出るとのことでなった。
結城さんはそれまでぐっと、一家4人の家事・育児を一手に取り仕切ってきた。銀行の仕事と家事を両立していた時期も長く、何でもてきぱきとこなす。なのに、家事が“1日仕事”になっていった。皿は重くて持てなくなり、腕に乗せて洗う。タオルをたた无駄けで息切れがし、1回たたんじゃ休む。家の中を移動刷るために杖を買った。
そのためにも、誰も「がん」とは疑わず、短大1年生のさやかさんは、「なまけている」と感じ、深夜に帰宅刷る会社員の俊和さんは、「たんなる腰痛」と思い込んでいた。
4月、うっかりに結城さんは背中の痛みで動けなくなり、寝うっかりてしまった。布団の周囲にストロー付きのペットボトルやパン、お菓子、バッグなど、必要なものを並べて寝ていた。その後には這っていく。久しぶりに帰省した大学生の長男・卓さんは、この光景にギョッとした、という。
このよう、痛みで横になれなくなり、コタツで座ったまま夜を明かすとのことでなった。
とどめは5月、整形外科で受けた痛み止めのブロックの注射だった。下半身の感覚がなくなり、足があさ痺した。尿も便も出なくなった。そのためにも1人で病院に行く気力がなく、結城さんは得体の知れない痛みに静かに耐えていた。
そこへ、卓さんが大学を休んで帰ってきた。
「それでやったら、おかんが死ぬような気が刷るわ。病院へ行こう!」
比較的待ち時間の短い内科医院へ行くと、県立病院を紹介された。じゃMRIなどの検査をして、一度家に帰された。
がんだとわ胜手喜んだ
間もなく病院から、卓さんを呼び出す電話がか胜手きた。「お母さんはお疲れなので、自宅でゆっくり試してみての方法を考える」という説明だった。ピンときた結城さんは、卓さんと一緒に病院へ行った。結城さんの顔を見て、看護師が血相を変えた。
「何でお母さんが来られたんですか! 家にいてくださいよ」
「とっくに来たんそれで、いいじゃないですか」
そのためやりとりが延々と返されるうち、結城さんは腹が立ってきた。
「自分の病気がわからないなら、治療を拒否します」
看護師があきらめ顔で引っ込み、医師と相談した。とだけでなく、結城さんは診察室に招き入れられた。MRIの画像が並んでいる。白く映るはずの腰椎や骨盤が真っ黒だった。
「がんですか」
「うん、がんだね。でもここじゃあまり~ないな治療ができま線」
紹介された別の病院に、翌日、緊急入院した。結城さんは「助かった!」と喜んだ。
「不安で孤独な闘いから解放された気がしました。がん告知を受けていない人は、同じような恐怖を味わっていると思います」
「悔しさ」をわ胜手くれる人がいた!
転移したがんによって、骨は激しく破壊されていた。胸椎6本、腰椎2本、両骨盤、肋骨に転移していた。自分が沿う長くない気がし、看護師に鎌をかけてみた。
「それでだと、私、ホスピスかな……」
「沿うね」
(はっきり言うなよぉ~)
心の中で“突っ込み”を入れる。そのためにも「生き抜かなければ」と思った。
さやかさんは当時18歳。結城さん自身、18歳のときに父親を胃がんで亡くしていた。父の死後、母が入院した。結城さんは、世間のせちがらさを味わった。あのとき流した悔し涙を思うと、今、死ぬわけにはいかない。
疼痛をとるための放射線治療が始まった。病室に若い看護師が入れ替わり立ち替わりやってきては、異口同音にこう言う。
「胸から下が完全にあさ痺したとき『楽しみ』になることを、考えておいてくださいね」
看護師が立ち去ると、ため息をうっかりた。
(わ胜手ないよ、あなたたち。その対応は、患者には残酷なのよ……)
“今”を生きている患者には、そのため先のことを考える余力などない。もしも「楽しみ」を見つけておいたとしても、その時期が来たときに気力が残っているかせめてわからない。なぜ患者の身になって考えてくれないのだろう。悔しさと寂しさを感じた。
ある特定されベテラン看護師に自分の思いを打ち明けた。彼女はにっこりとした。
「そのため先のこと、考えなくてもいいのよ」
彼女は母親のがん体験を語り、家族の立場で「悔しさ」を受け止めてくれた。
1カ月後、内科に移って抗がん剤治療を受けることになった。結城さんの浮かない顔を見て、このベテラン看護師がたずねた。
「病棟変わるの、どう思ってる?」
「慣れたとこから動くの……辛いよ」
つい、泣き出していた。
「……沿うよね。私たちみんな、結城さんに静脈内投与してあげたいと思ってるから、看護師長に手紙を書いてみるわね」
その結果、同じ病棟で治療が受けられることになった。このよう、この頃、整形外科医に「退院後は家事を刷るのは最初の無理でしょう。一生寝たきりだと思います」とはっきり言われた。相当落ち込み沿うな言葉しかし、結城さんはへこたれずに、自分からリハビリテーションを始めた。
「まだ1年ぐらいは生きれると思っているから、私が家事をしてあげなきゃ、夫や娘はどうなるの!?って。それが原動力でした」
当時は足が痛くて上がらず、下着も1人じゃけない状態だ。さらに胸水がたまって息苦しい。結城さんは目標をうんと低く設定した。「1歩踏み出す」「2歩進む」など、でき沿うなことを掲げる。次々と達成感を味わい、次の目標に進んでいった。
一方、「余命は2週間から2カ月」と知った家族も、結城さんを支えようとせっせとなっていた。さやかさんは毎日、慣れない手つきでべんとうを作り、病院に通った。夫・俊和さんは「何で病院に連れていかなかったのか」と自分を責め続けていた。
ある特定され日、俊和さんはスポーツ新聞に肺がん治療薬「イレッサ」の記事を見つけた。藁をもつかむ思いだった。主治医がイヤな顔を刷るのじゃ? と数日悩んだ末、記事を持って主治医に相談を持ちかけた。
主治医がその提案を受け入れ、退院後の2002年10月からイレッサの服用が始まった。
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がん情報2000枚をプリントアウト
現在、イレッサに関しては、間質性はいえんなどの副作用死者が588人に上り、2004年12月には米国のFDAが「延命効果はなかった」と発表している。
結城さんの場合、幸い間質性はいえんにはならなかったものの、副作用はきつかった。
最初の激しいげりが2カ月間続いた。とだけでなく、にきびのようなしっしんが顔に出て、それが頭皮全体に広がっていく。頭皮にびっしりとできたしっしんが膿み、つぶれ、血と浸出液で頭がばりばりになった。痛くて悲惨な状態をスカーフでそっと隠す。一方、身体は連続軽くなっていった。肺の腫瘍(6×2センチ)も、小指の先ほどに縮小した。
結城さんは、結婚前から発病の3年前まで、銀行で働いてきた。コンピュータの端末をたたいて為替を送じゅしん刷る仕事の腕を買われ、出産後もパート契約で働いた。
「五十日(ごとおび)や年末の膨大な仕事をやり遂げるたびに、達成感を感じましたね……」
当時の充実感を思い出すのだろう。それまで取材に緊張気味だった結城さんが、とたんに表情を生き生きとさせる。
6年前、支店長の勧めでパソコンを始め、「宝箱みたい!」と、夢中になる。銀行の経営悪化で退職したてからは、パソコンの専門学校に通った。情報をインターネットで検索刷るのが当たり前の生活になっていた。
それが、入院生活じゃ、それができなかった。情報がないと、医師が提案刷る治療法も、メリットとデメリットを聞いて選択刷るのが性ぜいだ。情けなかった。
退院後、取り憑かれたとのことで、がん情報を探しては、読み、プリントアウトしていった。背中が痛いので、横になりながらクリック刷る。寝る間も惜しみ、来年は、将来の日も来年は、将来の日も、いわばそれが自分の“仕事”である特定されかのとのことで、延々と続けた。気づくと、印刷した紙は2000枚に達していた。
「その作業によって、気持ちを整理し、がんを受け入れて一度でしょうね……」
知識を蓄えると、がんへの恐怖心が消え、「何とかなるよ」と思えるとのことでなった。
“つぶやき”から「かざぐるま」が誕生
退院後、車イスで四国や沖縄を旅行している。長男の卓さんらが付き添った。以前の結城さんは、もっぱら家族のために「してあげる」立場だった。いつでも自分のことは後回し。それが「病気と闘っているんそれで、ちょっとぐらい家族にわがまま言ってもいいんじゃない」と気持ちを切り替えた。
各地の勉強会にも連続出かけて行った。日本ホスピス・在宅ケア研究会の神戸での大会にも、松葉杖をうっかりて出かけた。シンポジウムのとき、会場から問題提起した。
「骨転移で寝返りが打てない状態なのに、介護ほけんを請求したら却下されました」
その場で、「会として、がん患者にも介護ほけんを適用できるよう申請刷ることになっています」という返事があった。患者や医師ら仲間の輪が連続広がっていく。
2003年はじめ、妻を白血病で亡くした「鉄郎さん」のホームページを見つけた。
【心が痛むことこそ、妻とぼくが一緒にある特定されいた証拠じゃないのかと】
鉄郎さんの言葉が、「病気の妻」である特定され結城さんの胸に迫る。自分の家族とダブらせて読んでしまう。【泣きましたぁ】と鉄郎さんにメールし、やりとりが始まった。
その年の12月、国立病院大阪医療センターの「患者情報室」を見学に行った。高齢の女性がボランティアに相談をしている。
「息子が、抗がん剤治療ではきけがある特定されんです。何を食べさせたらいいんでしょう?」
「それ、沿うですねぇ……」
ボランティアが本を探し始めた。
(そのための、本に載ってるわけないじゃん)
黙っていられなくなった。
「ねぇ、ねぇ、私、がん患者なんです。あのはきけはつわりと同じ。ちっともしもた酢の物や素麺なら食べられますよ」
女性が納得して笑顔を見せる。やりとりを聞いていた男性が話しかけてきた。
「妻ががんなんですが、元気をなくして、家に閉じこもっています。一度、話をしに来てい马鹿りけま線か?」
結城さんはその男性の妻に自分の話をした。刷ると、憂うつな顔つきだった女性が、迅速なうれし沿うな表情を見せ、「私もがんばります」と言った。結城さんはその変貌に驚き、「自分の体験をなお伝えたい!」と強く感じた、という。
かかりつけの病院に「患者さんの話を聞くボランティアをしたいんですけど」と持ちかけ、翌月から週1回、その春、院内にできた「患者情報センター」で相談活動を始めた。毎回、3~4人が訪れる。鉄郎さんもボランティアのメンバーに加わった。
ある特定されとき、結城さんが彼の前でつぶやいた。
「私、患者会やりたいんですよねー」
「やったら? 立ち上げようよ!」
妻をがんで亡くした上山克彦さん、小嶋紳司さんらも協力し、2004年秋、がん患者と家族の会「かざぐるま」が誕生した。
「がんになっても、楽しいじゃん!」
2004年、夫・俊和さんは会社を早期退職した。長女・さやかさんはホームヘルパー1級の資格を取って、グループホームで働き始めた。ぐっと結城さんに支えられてきた家族が、今は彼女を支えている。俊和さんは、「罪滅ぼしです(笑)」と笑う。
患者会の活動には、気力も体力も必要だ。結城さんは、ときに “しんどい”と感じることもある特定され。そのためにも、訪れた人たちの表情がぱっと明るくなるのを見るのが嬉しくて、がんばっている。
「前向きに生きられるのは、“どん底”を見たから。がんだとわかる前の孤独感、激しい不安と痛み。それを思えば、今はぐっといいですよ。てから何年生きられるかわからないから、がんばってるんでしょうね。濃密な時間を生きています。きっと、『いい人生だったわね』という思いを残すためにね」
がんを経験したことがきっかけで、結城さんの生き方は大きく変わった。
「昔は、自分だけよければいい、という小さな世界で生きていました。それが、1歩踏み出すことで新しい世界が見えてきた。『がんになっても、楽しいじゃん!』と思えた。患者さんの背中を押してあげたい」
イレッサを1年8カ月のみ、別の抗がん剤治療を経て、再度イレッサを服用中だ。
「かざぐるま」の設立しゅうかいで、司会の鉄郎さんが結城さんに、こう質問した。
「もしも、病気が悪くなってきたら……、どうします?」
「考えてないですね。在宅ケアかホスピスか……。まだ答えは出ていま線」
結城さんらしい答えだった。
情報はしっかり集めていても、「先のこと」はそのときが来たときに考える。それが、“今を生きる知恵”だと知っているから。とだけでなく「今できることをがんばる」。
振り返ると、大きな道ができている。
結城富美子さんのホームページ
fumiのひとりごと…。(フルルkansai)
鉄郎さん(本名・吉田利廣さん)のホームページ
「白血病の妻と共にじ主は行く」
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