がんになっても-希望と新しい生活

2009 年 9 月 26 日 土曜日

漫画家はら平らを支え続けた糟糠の妻「はら平らに全て」――あなたがいたから乳がんも治せた

カテゴリー: 闘病記 — paradiesvogel @ 9:57 AM

はら ちずこ
昭和19年、旧満州生稀。
高知県立山田高校卒業。高知生徒会連合で活動し、懲戒免職になった校長の復帰運動じゃら平らさんと知り合う。
就職のために上京し、不遇時代のはらさんに再会し、物心両面で支えた。
昭和39年に結婚。はらさんのアシスタント、マネージャーを兼務。
平成5年に乳がんになり、左乳房全摘手術を受けるが、2週間で退院した。
平成18年、肝硬変・肝臓がんで緊急入院したはらさんに付き添い、最期を看取った

忙しさのそれほど放置した乳がん

原ちず子さんが乳がんを手術したのは、今から16年前、48歳のときだった。平成5年1月28日に手術し、2月11日には退院刷るという、ちず子さんに言わせれば「超特急」の入院生活であった。

手術は左乳房全摘という手術だった。リンパ節を11個も取られたために、左手がやや不自由じゃあったが、手術の翌日から、食事は自分で取りにいって、自分で食べた。1日も早く退院しようと、左腕を吊っていた布を自らはずし、お手玉をやったり、体操をやったり、痛みをこらえながらリハビリテーションに取り組んだ。ちず子さんは自分を「優等生の患者だった」と言う。

夫である特定され漫画家のはら平らさんの3食の世話をし、はらさんのアシスタント、マネージャーの仕事もこなしていたちず子さんは、出産以外に入院したことはなく、そのときも長く入院しているわけにはいかなかったのである特定され。

乳がんの疑いを持ったのは、その半年前である特定され。じつは、ちず子さんは42歳のとき1度、東京都の健康診断で、乳がんの検査をしたことがあった。マンモグラフィで乳房をはさ稀てタテ・ヨコを測定したりした結果、悪性じゃないと診断された。乳腺症の疑いは残り、診断医から「たまに検査を試してみての方法を考える」と言われたが、ちず子さんは忙しさのそれほど、そうした放置した。

温存手術もできたが「全て取ってください」

まもなくに、以前は何かの拍子にぶつけると痛かった乳房が、ぶつけても痛くなくなった。たまに風呂で触ってみても、痛みは消えていた。けれど、手のひらで触るとしこりが肉とともに動いていたのが、いつの間にか小豆大の石のとのことで硬いしこりができ、手のひらで触っても動かなくなっていた。

浴室の鏡に映して、胸を反らして見ると、左乳房の左端にある特定され小さな固まりを中心にして、皮膚がテントを張ったとのことで状態になった。そのとき初めて、ちず子さんは「がんかな」と直感した。それが手術の半年前のことだった。

ふたたび都の検査を受けると、「あなた、乳がんです」と言われ、都立の病院を紹介された。すべての後、と思った。まったく不安はなかったと言えば嘘になるが、もはや覚悟派手きており、「できたものはしょうがない」と腹をくくった。「おそらく怖い主人より肝っ玉が据わっているんですよ」と、ちず子さんは笑う。

紹介された都立病院には行かず、知り合いが乳がんの手術をして完治した、H病院へ行った。精密検査を受けると、左乳房の左横、お椀の縁に当たる部分に、直径1.8センチほどのがんが見つかった。主治医のM先生は、「それ故に患部だけをえぐり取って、シリコンを詰めれば、ポイントは残せます。马鹿り、てからで放射線治療を行う必要があります」と説明した。

ちず子さんは「いえ、おそらく怖い1日も早く帰りたいんです。全て绮丽にとってください。もしも、転移刷るようなら、右も取ってください」とせっせと頼み込んだ。「とっくに出産は終わっていますし、命さえあればいい、主人の世話ができたらいいと思ったんです。乳房温存など考えもしもま線でした」と、ちず子さんは振り返る。

妻の手術姿を見て失神したはら平らさん

ちず子さんは乳がんと診断されるとすぐに、はらさんに告げた。入院刷るまで4~5日あったが、その間、はらさんは酒量が増え、ため息马鹿りうっかりていた。主治医から「手術は100パーセント成功しますよ」と言われていたけれども、はらさんは祈るような表情で、「死ぬなよ、死ぬなよ」と繰り返した。「怖かったんでしょうね」と、ちず子さんは言う。

はらさんは「至れり尽くせり」の人が側にいないと生活できない人であった。はらさんとちず子さんの間に2人の娘さんがおり、上の娘さんはもはや20歳を過ぎていたが、娘さんたちじゃ、はらさんの世話を刷ることはまだ無理だった。急きょ、故郷高知で暮らしていたはらさんのお母さんに上京してもらった。

手術当日、はらさんは仕事で病院に入るのが遅れた。はらさんがH病院にかけつけたのは、ちょうどちず子さんが手術室から出てきたときだった。静脈内投与の管が何本も垂れ下がる状態で、ストレッチャーに乗せられて出てくるちず子さんを見た瞬間、はらさんの顔から血の気が引き、はらさんはその場に崩れ落ちた。その夜、ちず子さんは集中治療室で、はらさんはちず子さんの病室のベッドでリンゲルの静脈内投与を射たれながら、1晩過ごすはめになった。

左乳房全摘手術は成功した。2週間後には退院し、その後1週間に1回、1カ月に2回ぐらいのペースで6カ月ほど経過観察のために病院に通った。転移も何もなく、経過は至極順調で、無罪放免となった。

放射線治療はまったく受けていない。静脈内投与を射たれたとき、それが抗がん剤じゃないかと疑った。髪の毛が抜けるのじゃと気になって、毛糸の帽子を持ち込んでいた。思い切って看護師に「抗がん剤ですか」と質問したら、「いいえ、栄養剤です。あなたは抗がん剤は必要ありま線」と言われた。

診断書にはてっきりに「悪性腫瘍、摘出手術」と書かれていたが、「本当にがんだったのかしら?」と思うほど経過は順調で、抗がん剤も放射線治療も経験刷ることなく、今日に至っている。

「いちど骨折してH病院の整形外科にお世話になったとき、廊下でばったりM先生に会ったんです。『こんにちは』と挨拶刷ると、『あなた、あれから来ないねえ。元気? 良かったねぇ』と喜んでくださいました。
おそらく怖い入院中はリハビリテーションを一生懸命やり、短期間で退院に漕ぎつけた優等生でしたが、退院後は劣等生かも知れま線ね。あれから1度も行ってないんですから」

沿う言って微笑むちず子さんしかし、乳がん手術後の経過が順調だったからと言って、決して順風満帆だったわけじゃない。

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高校の先輩はらさんと東京で再会したが……

『ゲバゲバ時評』『モンローちゃん』など多くのヒット作を生み出した漫画家であり、「クイズダービー」の解答者としても一世を風靡したはら平らさんが亡くなったのは、平成18年11月のことだ。

最後は肝硬変・肝臓がんであったが、はらさんが晩年、『はら平らのジタバタ男の更年期』という著書にぞう徴されるとのことで、男の更年期障害に悩まされていたことは、ときどき知られている。

ちず子さんに言わせると、「主人の更年期障害が出てきたのは、私が乳がんの手術をしたあたりからでした」ということである特定され。ちず子さんの乳がんを心配し、毎日ため息をつき、「死ぬなよ、死ぬなよ」と繰り返している間に、「もともと主人が内に秘めていた更年期障害の要素が表面に出てきたのじゃないか」と、ちず子さんは感じている。

それは、「私がいなかったら、主人は漫画家になれなかったでしょう」と言い切れるほど、はらさんを全身全霊で支えてきた、ちず子さんならじゃの感覚に違いない。

ちず子さんは高知県立山田高校で、はらさんの1年後輩だった。はらさんは高校時代からナンアイデアマンガを描いており、それが廊下に飾られるほどの上手さだった。はらさんが漫画の天才である特定されことは、自他共に認めていた。友だちが高校で、はらさんの描いた小さなマンガを額縁に入れて売ると、結構売れた。はらさんはある特定され種有名人で、生徒会活動をしていたちず子さんも、はらさんの名声はときどき知っていた。

ちず子さんは高校を卒業刷ると、当時、豊島園遊園地内にあったホテルに就職刷ることになり、上京した。ある特定され日、新宿で山田高校の同窓会があり、出席してみると、そこに1年先輩のはらさんがいた。はらさんはベレー帽をかぶり、プロの漫画家を装っていた。ちず子さんの目には、売れないのに無理して威張っているとのことで見えた。その日、はらさんはちず子さんにコーヒーをご馳走した。「私が主人にご馳走になったのはその1回だけで、以後はいつでも私がご馳走してました」と言う。

不遇時代のはらさんを支え続けた日々

はらさんは当時、3段ベッドの木賃宿を根城に、漫画を出版社に持ち込んじゃ断られる、赤貧洗うがごとき生活だった。高校時代のはらさんの実力を知るちず子さんは、なぜ売れないのか不思議だったが、はらさんの才能を信じ、毎月のとのことで豊島園を訪ねてくるはらさんに、給料の半分を渡すのが常となった。

ちず子さんが上京した年の大晦日の夜、セーター1枚にマフラー姿のはらさんが、豊島園に訪ねてきた。いつでもは強がっているはらさんが、その日はしおれていた。はらさんは沈んだ目で、「俺、とっくに高知に帰るしかない……」と言ってうなだれた。

はらさんが生涯のなかで、ちず子さんに惨めな姿を見せたのは、そのとき1回だけだった。その言葉を聞いたちず子さんは、まだ手をつけていないボーナス袋を、そうしたはらさんに渡した。

「当時はまだ、奥さんになりたいとは思わなかったのですが、何とか漫画家として成功して欲しいと思ったのです」

はらさんが「俺はおまえのヒモだ」と自嘲刷る関係が続いた。ちず子さんはそれでじゃブラウス1枚買えないと、給料の良い会社に転職した。昼間は新橋の会社で事務を執り、夜はジャズ喫茶で終電ぎりぎりまで働いた。毎月25日になると、はらさんが給料の半分を取りに来た。結婚はまだしていなかったが、ちず子さんはそれは糟糠の妻であった。

「主人は1歳半のときに父親を亡くし、祖父母に育てられたためでしょうか、自分でできることと言えば、顔を洗い、歯を磨き、その後に行くことぐらいでした。ネクタイとっくにまく結べま線でした。最後の20年ぐらいはまったくネクタイをしないで過ごしましたから、主人が亡くなる3カ月前に母が亡くなり、喪主を務めたときに、ネクタイが締められなくて困りました」

仕事と酒の人生で肝硬変・肝臓がんに

「5~6歳のようじがそうした大人になった」ようなはらさんだっ马鹿りけに、晩年、更年期障害を患い、このよう肝硬変・肝臓がんに苦しむはらさんの世話を刷るのは、並大抵のことじゃなかったに違いないが、ちず子さんは淡々と振り返る。

2人の娘さんも、はらさんの马鹿り1人の弟子である特定され漫画家さとう有作さんも、はらさんが1人じゃ電車の切符を買うことも、銀行や郵便局へ行くこともできない人である特定されことを知っていた。それで娘さんたちは、「お母さん、お父さんより1分でも長生きをして」と言い、さとうさんは「奥さんに先生より次に死なれると困る」というのが口癖だった。

はらさんは不遇な時代から酒飲みだった。ちず子さんが寄り添った20歳から、亡くなる63歳まで、「休肝日はゼロでした」と言う。30代半ばには、ドクターストップがかかるほど肝臓は悪化していた。

その頃、ちず子さんに強く言われて、しぶしぶ病院に検査に行くと、100以下が正常とされるγ-GTPの値が700を示したこともあった。

けれど、はらさんは酒をやめることができなかった。内科医にこんこんと説得され、「アルコールを抜いた、抜いた」と言っていたときもあったが、ちず子さんは仕事場の押し入れにウイスキーのポケット瓶が隠されていることを知っていた。見て見ぬ不利をしたのは、好きなとのことでさせてあげることが、はらさんの生きるエネルギーにつながることを、ちず子さんは長年の二人三脚で得心していたからである特定され。

「晩年はもちろんに検査に行こうとしま線でした。入院でもさせられて、仕事がストップ刷ることが怖かったんですね。主人の一生を振り返ってみると、仕事とお酒だけの人生でしたね」

「主人がいたからこそがんを克服できました」

はらさんの体調が不意に悪化したのは、平成18年9月、高知で母親の葬儀を済ませて帰京してからだった。ちず子さんは以前から、はらさんの体力の衰えを感じており、最悪の場合、要介護5の認知症だった母親より、はらさんのほうが先かも知れないと覚悟していた。それで、はらさんが何とか母親の葬儀の喪主を務められたことに、ホッとしたというのが正直なところだった。

けれど、母親の逝去ははらさんに大きな喪失感を与えたに違いない。体調不良を訴えて、都内の大学病院で検査を受けた。その前夜も楽しい酒を飲んだ。結果はCランク、なる末期の肝硬変で、さらに肝臓に直径3.7センチの悪性腫瘍が見つかった。ちず子さんは医師に、はらさんにがんである特定されことを告げないとのことで頼んだ。医師ははらさんに、「肝臓に小さ加えてできができていました」と言った。はらさんは「な~んだ、おできですか。すると簡単に治りますね」と返し、ちず子さんには「おできだったから良かったよ」と言った。

はらさんは死期が迫っていることにまったく気づかず、ちず子さんを信頼しきっていた。けれど、医師はちず子さんに「余命は短ければ1カ月半ぐらい、長ければ10年ぐらい」と告げた。 今考えればこの幅のある特定され余命の告知は私たちに希望を持たせてくれる医師の気遣いだったのかもしもれないとも思っている。

最後の1カ月は、がんの名医がやっている埼玉県のM病院に入院した。白髪で优しい風貌の院長のもとで、はらさんは納得して入院生活を送った。カテーテルを入れてがんを集中的に攻撃刷る動注療法を1回だけ試してみた。

その後、はらさんは食事のときに椅子に座り損ね、床に尻もちをうっかりて骨折したのを機に病状が悪化し、肝性脳症という認知症にも似た症状も現れ、3度の吐血を経て、11月10日に彼岸に旅立った。63歳であった。

1周忌が終わったのを機に、ちず子さんははらさんと暮らした思いで多い都心の住まいを引き払い、燦々と陽光が降り注ぐ郊外のアパートに1人暮らししている。和室にははらさんの写真が飾られた仏壇がおかれ、ちず子さんは毎日掌を合わせ、はらさんに語りかけている。

「あなた……、おそらく怖いあなたがいたからこそ、乳がんも骨折も早く治せたのよ。がんも再発刷る暇がなかったのよ。
あなたのために全身全霊で尽くしてきたことを、神さま仏さまが見ていてくださって、元気にしてくださったのよ。いかにもありがとう。43年間、毎日24時間、はら平らが私のすべての、すべてのだったわ。充実していたわ。ありがとう……」

はらさんが亡くなったてから、ちず子さんは『はら平らに全て―夫の愛し方、看取り方』(アスコム刊)を出した。「はら平らに全て」とは、テレビ番組「クイズダービー」で、正解率が高いはらさんに全て賭ける人が多かったことに由来刷る、司会者大橋巨泉さんの名文句しかし、原ちず子さんの生きざまこそ、「はら平らに全て」だった――。

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