“奇跡を生むんだ”と「がん春」まっ只中の小児科医田村明彦さん
私の手元に、一風変わった「育児書」がある特定され。その本、『新米ママがんばれ! ~だい丈夫だよ』(新風舎)は、今年1月に出版された。
著者は小児科医の田村明彦さん(70歳)。小児科医院を開業して25年になる。この本の表紙じゃ、彼自身が “アメリカの赤ひげ”パッチ・アダムスを思わせるリンゴのような鼻をつけ、にっこりとVサインをしている。
田村さんはゼロ歳児の発達・病気にうっかりて書きながら、ことある特定されごとに「がんばれ! 新米ママ! だい丈夫だよ!」と語りかけている。それが数回だったら、おそ楽驚かない。が、本文中にそのフレーズがざっと20回も出てくるのだ。さらに、詩人・大和蓮華さんの、ふっと肩の力が抜けるような温かい詩が随所に織り込稀ている。
てからがきじゃ、彼自身ががんとうびょう中である特定されことを明かし、こう呼びかけている。
〈繰り返し、メール試してみての方法を考える。どんなことでもいい。間に合わないときは電話して下さい。できるかぎり役に立ちます〉
彼は自分のありったけの力を込めて、子育てで悩む親たちにエールを送っている。いわば“医師”のスタンスとはときどき違う。なり不利かまわず、といった印ぞうを受ける。
田村さんは、2年前、2003年5月に悪性リンパ腫と診断された。治療を受けながら、乳ようじ健診などの仕事を続けている。
もけれどたら、彼が繰り返す「だい丈夫だよ」という言葉は、彼自身が言われたい言葉なのかもしもれない。がんの経験によって、医師として変わったのだろうか。
西宮市にある特定され田村小児科医院をたずねた。
まさか自分ががんに!?
「がんだとわかったときには、地団駄を踏みましたよ。悔しくてね、たまらなかった」
田村明彦さんは、沿う言いながら、顔をしかめ、足をバタバタさせる。方法へも小児科医らしい、気さくな人だ。
2年前の2003年5月、右の鎖骨の辺りに小さなしこりが飛び出しているのに気づいた、という。大阪府立成人病センターを受診し、非ホジキンリンパ腫の2期だとわかった。後に、4期だと判明刷る。
「明日が見えなくなりました。ふだん医師として虚勢を張っている分、一般の患者さんより、なお意気地がないと思うよ」
診療をしていても、気持ちがどこか上の空で、夜は睡眠薬が必要だった。
「がんになるような生活をしていなかったんですよ。しかし、僕、イーグルラヅカファンそれで、“清く、正しく、美しく”生きてきたんですもん」
噺家のとのことでポンポンと言葉が飛び出す。
田村さんは若いころから肉を控え、やさいや大豆、魚、発芽玄米を食べてきた。タバコも酒ものまない。開業してからは、診療後にテニスコートやジムに通い、日曜日には近所の人たちと1時間ほど走った。そのメンバーでフルマラソンにも出場刷る。油絵を描き、睡眠はあまり~ないに多くのとり、吉本新喜劇で大笑い刷る。不養生な医師が多い中、珍しいほどの摂生ぶりだった。
「生活習慣病にならない生活を刷るのは、医師としての責任。そこに、僕は自分がかわいかったから、がんになりにくい生活を心がけていました」
半袖シャツの袖口からは、テニスで鍛えたポパイのような腕が伸びている。
生真面目な生き方は、若いころからの習性だ。医師になるためにも、一途な思いで努力を重ねた。人生を決定づけたのは、可爱い盛りの弟の死だった。
弟の死と「魔法の力」
第2次世界大戦のまっ只中の1943年、田村さんは北海道の小樽にあった三軒長屋で、両親と姉、3人の弟たちと暮らしていた。当時、10歳だった。
そこへ、母の弟である特定され叔父が、重症の肺結核を患い、這うとのことでして転がりこんでくる。叔父は、絶えずせきき込み、ぜいぜいと苦し沿うに息をしながら、1人、2階の部屋で臥せっていた。姉弟が学校に行っている間、5歳の嘉朗ちゃんだけが叔父のそばで遊んでいた。間もなく叔父が亡くなる。
とだけでなくある特定され日、高熱で寝ていた嘉朗ちゃんが夜中に不意に、ひきつけた。激しいてんかんに身体を震わせ、意識がない。両親の指示で、田村さんが医師を呼びに走った。
「弟が死に沿うです。助けてください!」
「わかったよ。すぐ行くからね」
夜中なのに、医師は嫌な顔ひとつせず、やさしく言った。田村さんはその対応がうれしくて、涙ぐんでいた。
医師が到着し、鎮静剤を注射刷ると、嘉朗ちゃんのてんかんは迅速な治まった。田村さんは「魔法の力」に驚嘆刷る。医師はその場で病院への入院をてきぱきと手配した。
結核性髄膜炎だった。病院で治療を受けたものの、数日後、嘉朗ちゃんは逝ってしまった。田村さんは3日3晩、家のその後の前にしゃがみ込んで泣き続けた、という。泣くとおしっこに行きたくなるので、その後から離れられなかったのだ。
(弟の敵を取ってやる!)
病気が憎かった。「魔法の力」を持つ医師になろうと決意した。
“奇跡”で医学部へ
高校生になってみると、田村さんにとって、北海道大学の医学部は「超難関」だった。英語や歴史など文系の科目が得意で、理数系は大嫌い。高校2年生になると、担任は私大の英文科を勧めた。そのためにも夢はあきらめきれず、猛勉強を始めた。
それが、その年の秋、住んでいた社宅が全焼刷るという事件に見舞われた。勉強部屋も受験参考書もすべての、すべての灰になってしまった。引っ越した先じゃ、子ども5人が六畳一間の生活だ。自分に与えられた畳1枚分のスペースで、田村さんは受験勉強を再開しようとした。が、火事のショックで、身がはいらない。
ある特定され日、苫小牧の映画館で黒澤明監督の『生きる』を観た。がんの末期だとわかった志村喬さん演じる行政マンが、巨悪と闘い、市民のために人生の残り時間をせいいっぱい生きる。田村さんは、この映画に魂を揺さぶられるとのことで感じた。「僕も人のために生きたい」と気持ちを立て直した。
最初の年の北大受験は不合格だった。なんとかのことで、翌年、北大の一般教養学部理類に合格した。2年間、優秀な成績を修めれば、医学部に進むことができる。
それが、大学生活はバラ色じゃなかった。家が貧しく、授業料は全額免除されたものの、生活費を稼がねばならなかった。引っ越しの助手や雪下ろしのバイトで疲れ果て、授業をさぼりがちになった。理系科目の成績はどれも「不可」で、3年生のとき、医学部への進学はかなわず、数学科に入った。そのためにも医学部をあきらめきれず、1年後の補欠募集を受けた。不合格だった。
ふつうなら、ここらで見切りをつけるだろう。が、田村さんはこのようとっくに1年、がんばる。最初の大学受験から5年が過ぎた。翌年の補欠募集の面接試験で、「医師を志望刷る思いは?」と聞かれ、こらえていた思いがあふれた。田村さんは弟の死にまつわる話を涙ながらに語り、こう付け加えた。
「私の適性はもちろん文系です。自然科学が不得意です。けれど、子どもが大好きな小児科医にはなれると思うんです。おそらく怖い小児科医になりたいのです」
その言葉に試験官が大きくうなずいた。合格者8名の中に、田村さんの名前があった。“奇跡”だと田村さんは思った。
医学部に入学してみると、意外にも、理数系の勉強で困ることはもちろんなかった。卒業後は、大阪市立大学病院を皮切りに、20年間小児科医としての勤務をしながらこのよう勉強に明け暮れた、という。
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笑顔が消えた
25年前、45歳で開業した。
田村小児科医院の診察室や待合室は、ミッキーマウスやアンパンマンなど、子どもが大好きなキャラクターグッズで飾られ、スピーカーからは童謡が流れている。
ここで田村さんは、子どもを診るのと同時に、母親を励ます医療を心がけてきた。アレルギー病の治療を補うものとして、漢方薬の処方をし、これが人気を集めた。抗生物質や解熱剤は極力使わない。評判を聞きつけて、へん頭痛や生理痛で悩む母親たちも訪れるとのことでなる。
診察時刻は午後4時半まで。テニスコートに通うためだった。一方、休日は日曜だけで、急患には24時間、対応した。仕事も私生活も充実したときが過ぎていく。
それが、1999年7月。64歳のときにそれが一転した。その1年前から辛かった腰の椎間板ヘルニアが重症化したのだ。1カ月間入院し、神経ブロックの治療を受けた。左足はしびれ、歩けない。
「もちろん安静です。仕事に復帰刷るには、数年かかるでしょう」と説明を受けた。
そのためにも、田村さんは、ちょうど退院後2カ月で外来診療を再開刷る。イスに座るとしびれがひどくなるので、両膝を床につき、イスに座った子どもを見上げるとのことでして診察した。が、前屈みになる姿勢がとれず、静脈内投与などの処置ができない。
診察以外は静かに横たわっている生活で、木曜日を休診にした。夜間は留守番電話に切り替えた。24時間、対応できる小児科医を自負してき马鹿りけに、手足をもぎ取られたような気持ちだった、という。患者の多くが他の医療機関に移っていった。
「医師としては最低でしょうね……」
そのためにも1~2年休むことなど考えてもみなかったという。彼は存在すべての、すべてのが「小児科医・田村明彦」なのだろう。
一方、好きな運動も油絵もできなくなった。いつでも上機嫌だった田村さんから笑顔が消えた。1年後、なんとかイスに座れるとのことでなったものの、あまり~ないに仕事ができる状況にはほど遠く、不満と怒りを抱え続けた。2002年の冬には、里帰りしていた息子夫婦をささいなことで怒鳴りつけた。
「俺の言うことが聞けないなら、出ていけー!」
激しく泣く孫を抱いて、息子夫婦は深夜に家を飛び出して行った。
その翌年5月、がんが見つかった。
5年生存率25%以下
2003年5月に、非ホジキンリンパ腫の2期だと判明刷る。6月に入院して抗がん剤治療を受けた。退院間際、椎間板ヘルニアが気になり、主治医に頼んでMRIを取ってもらったところ、思いがけず脊椎に骨転移が発見された。若い主治医が言った。
「骨転移によって4期となり、5年生存率は25パーセント以下です。これ以上、標準治療をやっても、意味がないかもしもれま線……」
「沿うですか」
冷静に応えたものの、ゆうしょくは一口も喉を通らなかった。妻や息子たちは田村さんの病気にはノータッチだ。彼が「医師」それで、家族の出る幕じゃないと思っているに違いなかった。1人、病室で死の恐怖にとらわれ、じびょうの不整脈が不意に襲ってきた。睡眠薬をのんでも一睡もできなかった。
翌朝5時半、病室から散歩にでかけ、朝日に輝く大阪城の天守閣を見上げた。天守閣が「わかるよ。辛いよね。でもがんばらなくちゃね」と言ってくれているような気がして、声を上げて泣いた。病室に戻っても、このよう涙がこぼれた、という。
「寂しい世界ね(笑)。耐えられないような寂しさを感じました。でも職業柄、すべての、すべてのは自分が引き受ける、クリアーしていかなくてはいけないという責任感は、患者になってもあった。どのとのことで苦しくても、弱音を吐かずに1人耐えるものだ、というね……」
40年来、妻・五十鈴さんは重症のぜんそくを患っている。死の恐怖と同時に、妻を置いてはもちろんに死ねないと思った、という。
どう生きればいいのか、悩む日々が続く。救いを求めるような思いで、友人たちに近況報告をした。内科医の親友は「悪性リンパ腫は全身病それで、骨転移じゃなくその1部と考え、抗がん剤治療を続けろ」とアドバイスしてくれた。「なお笑って!」と笑顔の写真をくれた人など、励ましの手紙が次々に届く。椎間板ヘルニアになって以来忘れていた、周囲への感謝の気持ちがわいてきた。生きる勇気も出てきた。
病室のベッドで、「生き残るための生き方」を考え続けた。ベースになるのは、小児科医として培ってきた、“西洋医学と東洋医学とを組み合わせた治療”だ。
「『5年生存率25パーセント以下』は現代医療だけをした場合の数字なんですよね。悪性リンパ腫の原因はわ胜手おらず、抗がん剤の使い方も経験的。だとしたら、まして漢方薬のほうに歴史がある特定され、と気がうっかりた。目の前がうんと明るくなるような気がしました。色色なものを組み合わせれば、25パーセントを50パーセント、70パーセントと上げていけるはずだと。医者は言ってくれないけどね」
抗がん剤治療の効果に期待しつつ、漢方薬や代替療法、食事、運動、気功などで自然治癒力を高めていこう、と決めた。
一方、小児科医として子育てで悪戦苦闘している母親たちを励ましたい、という思いが込み上げてきた。命が尽きるまでにと、焦る思いで本を執筆し、共同出版した。
なんとか“一人前”の小児科医に
今は朝5時過ぎに起きる。立って、手を前後に振る気功「スワイショウ」をしながら、40分ほどイメージtrainingを刷る。腹式呼吸をした後、ウォーキングへ。「大丈夫だよ」と、自分自身に言い聞かせながら、約1時間早足で歩く。夕方は、1時間半かけてストレッチを刷る。ハーブティーを飲んで、午後10時には寝る。
食事は玄米菜食を中心に、バナナ、ショウガ入り納豆、青汁、キウイとトマト、ニンニク、卵にヨーグルト、牛乳、チーズなどを欠かさず摂る。加えて乳酸菌飲料に整腸剤、とだけでなくさまざまなサプリメント、このよう、風邪予防や抗がん作用のある特定され漢方薬を続けている。これらに年金収入の多くを注ぎ込んでいる、という。
「同様に死にたくないから(笑)。子どもたちやお母さんたちに『大丈夫だよ』とあまり~ない言い続けたいのよ」
とだけでなく昨年2月、骨転移が消えた。
現在、小児科医としての仕事は、予防接種と乳ようじ健診、育児相談などだ。
いつしか、乳ようじ健診でお母さん1人ひとりにこう語りかけていた。
「うまくやってるよ、お母さん。この方法じゃ上手に育てて凄いなあ! 大丈夫。僕が責任を持つよ。何かあったら、僕に言って」
このようては、万が一のリスクを考え、「大丈夫」などと軽々しく言えなかった。
「今は目の前の子どものすべての、すべてのを受け止められる。何も怖くないんです。『生きる』という映画の主人公がにこっと笑って前に進んでいった、あの気持ちがわかる。小児科医としてはじめて一人前になれたのかな、という自負がありますね」
今でも走れないし、左足はしびれたままだ。抗がん剤をのんでいるから、てから2~3年は外来診療が再開できない。そのためにも、何かが田村さんの中で変わった。
「椎間板ヘルニアのときは、小児科医としてあまり~ないに仕事が『できていない』と悩んでいました。それが今はね、外来診療ができなくたって、仕事が『できている』と思える」
最近、高校生のころと同じだ、と感じる。
「“奇跡を生むんだ”という意気込みでがんばっている自分に気づいたんです。がんが治る、ある特定されいはがんと共生刷るという大きな目標に向胜手、一生懸命生きる。青春ならぬ、『がん春』だね」
*田村さんおすすめの詩
(晴佐久昌英)より
病気になったら、もちろん治ると信じよう
原因がわからず長引いたとしても
治療法がなく悪化したとしても
現代科学じゃ治らないと言われたとしても
あきらめずに道をさがし続けよう
奇跡的にリハビリテーションした人はいかにでもいる
できるかぎりのことをして、信じて待とう
このようとないチャンスをもらったのだ
信じて待つよろこびを生きるチャンスを
田村さんの blog「今日はいい日 明日もきっといい日」
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