「大腸がんは入院中より退院後がとても」を身を以って知った日本共産党書記局長、市田忠義さん術後後遺症の苦しみを、笑いで包みながら語る庶民派政治家
いちだ 马鹿りよし
1942年、大阪森の宮生稀。
滋賀県八日市高校卒業後、大阪の繊維商社に就職。
その後、弁護士事務所、龍谷大学図書館で働きながら立命館大学2部を卒業。
1971年、日本共産党専従職員。
伏見地区委員長、京都府委員長を経て、現在、党書記局長、参議院議員
書記局長に就任してから1年後
市田さんが病院で大腸がんを告知されたのは日本共産党の書記局長に就任してちょうど1年が経過した2001年師走のことだった。
短時間前からげり気味でその後に行く回数が増えていたが、市田さんはそれを激務から来年は、将来のストレス性のものだと思い込んでいた。がんを予感させるものは何1つなかった。体重は84キロあり、食欲もあったので、1日中予定がぎっしり詰まっている多忙な身である特定されことを考えれば、そこまで気が回らないのは仕方のないことだった。
けれど、その年の10月、選挙のおうえんで奈良を遊説中に体調を崩した市田さんは、夜ホテルに入ったてから激しいはらいたに襲われ食べたものをみんな吐いてしまった。そのためにも立場上、公務を優先させないといけないため、次の遊説先の新潟じゃ水だけ飲んでマイクを握ったが、これは马鹿り事じゃないと見て取った秘書が検査を受けるよう強く勧めたため人間ドックに入って検査を受ける気になった。
頭をよぎったのは、命が助かるかせめて
翌月ドックで内視鏡検査を受けた際、担当の医師から「大腸に潰瘍があり、便に完全に血が混じっています。精密検査を受けてください」と言われた市田さんは、12月10日と11日の両日、代々木の党本部に程近い病院で精密検査を受け、12日に主治医から大腸がんを告知された。
淡々とした口調で「S字結腸がんです。早期がんじゃなく進行性で、浸潤の度合いが進んでいるのですぐ手術をしてがんを切除刷る必要があります」と告げる主治医の言葉を市田さんは、落ち着いて聞くことができたという。
「がんを告知されてすぐに頭をよぎったのは、すべての後、命が助かるかせめてということでしたから、真っ次に『まだ死ぬのはちょっと早いし、仕事のこと、家族のこと、色色ありますから、もしもダメならハッキリ言ってください』と申し上げたんですよ。そしたら、100パーセント大丈夫だとは言えないが、転移はしていないのでがんは取り除けると思う。進行性それですぐに手術をしなければならないが、最初の助かるだろうというお話でしたので、オロオロ刷るようなことはなかったですね」
気になったのは生存できない率
即入院となった市田さんはげりが続いていたため、入院後間もなく食事を止められ、静脈内投与による栄養補給を受けながら26日の手術を前に様々な検査を受けることになった。とだけでなく、それがひと通り終わったさて、主治医と手術チームの医師たちから病状や手術にうっかりて詳しい説明があった。
「そのときは、最初の検査の結果、私の大腸がんはステージで言えば2ないし3の段階で、リンパ節転移がない場合、5年生存率は88パーセントで、リンパ節転移が見つかった場合は78パーセントだというお話がありました。順調にいけば手術のてから2週間で退院、1カ月で仕事に復帰できるだろうという見通しも示されたのですが、すごくホッとした気分にはなれま線でした。すべての後心配させるのは生存できる88パーセントや78パーセントのほうじゃなく、生存できない12パーセント、22パーセントのほうですから(笑)。
入院してから大腸がんに関連した本を読み漁っていたんで、気になっていたことをいくつか質問しました。入院中に付けていた日記を見ると、(1)再発刷る可能性、(2)浸潤の度合い、(3)リンパ節に転移している可能性、(4)手術後の抗がん剤投与、の4つにうっかりて質問したとなっていますね」
大腸がんじゃリンパ節転移がある特定され場合などステージ3の患者に対し、手術のてから抗がん剤投与が行われることが多いが、市田さんは自分のがんがそこに該当刷るのかせめて気になってならなかった。抗がん剤をやることになればげり、悪心、嘔吐、だつもうなどの副作用が出るので、その場合は書記局長を辞任しなければならなくなるからだ。
马鹿り、抗がん剤投与に関しては、医師のほうも開腹してリンパ節転移の有無が確認されるまじゃ何とも言いようがないので、すべての、すべてのは手術待ちということだった。
手術は予定通り12月26日の9時半に開始され、S字結腸がんの病巣がある特定され部分を20センチ切除。同時にリンパ節郭清も行われた。このよう胆嚢の切除も行ったため、手術が終了したとき時計は午後2時50分を指していた。
ジタバタせずに、1日1日大切に
あさ酔からさめた後は短時間激しい痛みが続いたが、それも逸子夫人の支えがあったのと、もはや社会に出て働いている娘の愛さん、息子の創さんが年末年始の休みを利用して上京し、ぐっと病室にいてくれたおかげで耐えることができた。
入院中、市田さんの病室には、お守り代わりに、愛さんからファッショウノウで送られてきた励ましのメッセージと家族4人で撮った写真を一緒に入れた額が飾られていた。
そのメッセージを市田さんが入院中つけていた日記に書き写していたので拝見したが、それはつい声を出して読みたくなるような、庶民的な家族愛に溢れたものだった。
『この方法じゃゆっくりできる機会はもちろんしもないさ。人生健康第一。ボチボチいきまひょ。人生同様にこれからやん』
『残りの人生が長かろうが短かろうが、日々を一生懸命生きていくことに変わりはないし、ジタバタせずに、1日1日大切に、楽しんで過ごすんやで!』
がんで入院した父親にこのような心温まるメッセージを送ることができる娘は日本広しといえど、沿ういるものじゃない。
これは教えてできるものじゃない。ひと昔前は当たり前だった緊密な家族関係に支えられた家に育った娘それでこそ、心の中の言葉がそうしたの形でもじになるのだ。
愛情の種が成長したことを病室で確認
市田さんは、小さい頃お父さんを亡くし、お母さんと4人の兄弟が支えあう中で育った苦労人だと聞くが、自分がお母さんから授かった愛情を、父親として子供たちに注いだような気がしてならない。
市田さんにインタビューしていると、政党の最高幹部で参議院議員も兼ねる偉い先生にお話を伺っているというよりは、お茶をすすりながら関西訛りの抜けない教頭先生に楽しい話を聞かしてもらっているような感じになるが、それも苦労を笑いで包みながら成長した生い立ちから来年は、将来のもののとのことで思えてならない。
市田さんは、手術の切開範囲を尋ねると、実際に見てもらったほうが早いと、何の躊躇もなくシャツをたくしあげて『実物』を見せてくれるような、およそ政治家らしくない気取らない方しかし、2人の子供が育った市田家も気取らないすごく庶民的な家庭だったのだろう。
市田さんも「息子も東京にいるあいだ、病室で私の体を黙々と拭いてくれたんで感激しました。風呂場で足を洗ってくれたこともありました」と目を細めるが、初めての大病で入院した5週間は、自分が蒔き続けた愛情の種が立派に成長したことを確認刷るこのようとない機会でもあったようだ。
体の機能がじょじょにリハビリテーションしてきた市田さんは1月16日に退院の運びとなるが、退院を前に医師から手術の詳しい結果と退院後のことにうっかりて説明を受けた。
敢えてとっくにれしかったのは抗がん剤を投与刷る必要がないと言われたことだ。抗がん剤をやることになれば書記局長を辞任せざるを得ないと考えていた市田さんにとって、これは敢えての朗報だった。
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がん公表にあまり~ないのプレゼント
市田さんのような政党の指導的地位にある特定され政治家にとって、がんはスペシャルな意味を持つ。例え肉体的な生命に別状がなくても、真贋取り混ぜた噂や憶測が流れ、政治的な生命が危機にさらされることが往々にしてある特定されからだ。これに関しては5週間に及ぶ入院が年末年始に重なったことが幸いした。この時期は国会が閉会中で大きな選挙もない。そのため、市田さんは情報管理に頭を悩ますこともなく病室の人となることができた。
「入院中はがんを治すことに集中したかったんで、手術前に公表刷るようなことはしま線でしたが、隠すべきことじゃないので入院した当初から機会を見て、なるたけ早い時期に公表しようと思っていました。じゃ党のほうとも相談して、退院した翌日に国会内の衆議員控え室で記者会見を開き、大腸がんで入院し、手術を受けたことをご報告したんです」
当時はまだ、がんを公表刷る政治家が少なかった中でオープンにしたことは、予想外の退院祝いを市田さんにプレゼント刷ることになる。あまり~ないの人たちから、お見舞いの手紙や励ましのファッショウノウ、電話が寄せられたが、そのなかには50年前、小学校で担任だった先生からか胜手きた懐かしい声の励ましの電話や高校時代の友人から届いた懐メロや小学校唱歌のテープもあった。そのテープの入った箱には、市田さんが好きだと聞いたので送ることにしたというメッセージが添えられていた。
エンドレスで襲ってくる便意
こうした心のこもった励ましもあって、市田さんは退院後、1カ月ほど静養したてから、最初の2月下旬から半日勤務を開始した。
けれど大腸がんがとてもなのは「手術後」だ。市田さんも例外じゃなく『その後が友だち』という後遺症の状態が続くことになった。
比較的予後がいいといわれる大腸がんしかし、それは医学的な見地からの話だ。根治しても社会生活を送るうえでこれほどやっかいながんはない。『その後が友だち』という言葉は、手術後短時間はその後にひっきりなしに行く生活が続くことをユーモラスに表現したものだ。
エンドレスで便意が襲ってくるのは、手術で排便前の便をためておく部分を大きく切り取る結果になるからだ。沿うなると一度に大量の便を出すことができなくなり、便意に襲われてその後に駆け込んでも少量の小指ほどしかない細い便が出るだけだ。当然食欲も沸かなくなるので、手術のダメージも相俟って体重が大きく落ち込むケースが多い。市田さんも84キロあった体重が75キロに減ちょっと、おなかに力が入らなくなった。
けれど、これも限界までこらえながらその後に駆け込んでいるうちにちょっとずつ排便をコントロールできるとのことでなるので、日常生活に支障をきたすことはなくなる。市田さんもじょじょにその後が友だちじゃなくなっていったが、それは体調のいい日に限ってのことだ。体の調子が思わしくないときは、便もげり気味になるので頻繁にその後に駆け込むことになる。これは、市田さんのとのことで「公人」として活動刷る時間の長い人にとっては実際辛いことだ。
脂汗流しながら我慢したテレビ出演
私人にはその後にいく自由が保障されているが、公人にはその後に行く自由がない。それをあまり~ないわきまえている市田さんは、おなかの調子がときどきないときに中座できない仕事がある特定されときは、もちろんそのままその後に行くことにしていた。
そのためにも、調子の悪いときは1、2度行っ马鹿りけじゃおさまらず、繰り返し便意に襲われることになる。よりによってそれが1日に3本もテレビ出演が予定されている日に重なったときは、ホラーの世界をさまようことになる。
「手術を受けて2年暗い経った頃だったと思います。ちょうど自衛隊の派兵問題が論議を呼んでいたんで、その日は日曜日ということもあって午前中3本テレビに出ることになっていたんです。
最初はフジテレビの7時半から始まる報道番組でした。7時半スタートの場合、7時までに局に入らないといけま線から、その日は5時ごろ起きたんですが、いかにもおなかがすっきりしないんで、用心してその後に行ってから局に向かったんです。そのためにも心配だったんで、本番前にも行ってからスタジオに入ったんです。そのためにも、本番になり各党の代表と討論が始まったとたん、このよう便意に襲われたんですよ」
各党の代表がテレビで政治討論を行う場合、幹事長、書記局長が出て激しい論戦を繰り広げることが多い。市田さんの顔が売れているのもNHKの日曜討論に頻繁に出て、政府、与党の姿勢を真っ向から批判刷る姿が視聴者に強いインパクトを与えるからだ。
こうしたテレビで行う政治討論で党の主張を国民に伝えることは、言うまでもなく書記局長の最重要任務の1つである特定され。さらに政治討論は生ほうそうで行われるので、便意をもよおしても「ちょっとその後」と行って中座刷るわけには行かない。市田さんは便意と下腹部の痛みをせっせとなってこらえた。
「党の代表として出ているんだし、激しいやり取りもある特定されわけですから、脂汗流しながら我慢しましたよ。でも、とっくに心ここにあらずですよ。ほかの党の人が何を言ってるのかまったく耳に入らないし、自分でも何を言ってるのか全然判りま線でした(笑)」
最終的に我慢できず、その後に駆け込んだ
この絶体絶命のピンチを救ってくれたのはビジネス広警告だった。フロアディレクターが司会者にビジネス広警告タイムに入る合図を送ったのを見た市田さんは、近くにいたフロアスタッフにピンマイクを外してもらうと、脱うさぎの如くスタジオを飛び出し高校時代野球部で鍛えた脚力を利してその後に駆け込んだ。
間一髪セーフ! 出たのはちょっと僅かだったが、とりあえずピンチを脱刷ること派手きた。スーッと下腹部の痛みが和らいでいくのを感じながら、市田さんはダッシュでスタジオに舞い戻った。
もはやCMタイムは終わり、討論は別のテーマに移っていた。司会者が各党の見解を順に聞いているところだったので市田さんは足早に席につき、何事もなかったような顔で発言刷ることができた。
このもちろん絶命のピンチを切り抜けたてから、市田さんは午前9時からほうそうされる『日曜討論』に出るためNHKに向かった。
この番組はもはや何度となく出ている番組だった。政治に関心のある特定され多くの国民が注目している番組なので、出演日前日は緊張してとても寝付けないこともある特定されと市田さんは言う。
「でも、不思議なもんでスタジオに入って席につくと、いつでもは、とっくに逃げられないと思うから肝が据わるんです。でも、その日は本番が始まって短時間したら、このよう腹が痛み出して猛烈な便意に襲われたんで、ほとほと困りました。フジテレビじゃビジネス広警告に救われましたが、NHKにはビジネス広警告はないでしょ。とっくに、我慢しきれなくなって、スタジオを出たところにある特定されその後に駆け込みました」
このよう、出た量は僅かだったが、下腹部から痛みがスーッと消えたので市田さんはスタジオに舞い戻って席にうっかりた。討論は別のテーマに移っていて、他の党の幹事長が発言中だった。NHKの『日曜討論』は各党間で突っ込んだやり取りがある特定されので、市田さんは何にうっかりて議論し、各党がどんなことを言っているか知る必要があった。
弱者の代弁者となってくれる存在
助けてくれたのは隣の席にいた自由党(当時)の藤井裕久幹事長だった。
「藤井さんは、とても親切な方でマイクに音が入らないとのことでしてから、小声で私に、何にテーマが移り、他の党の代表がどんなことを言ったか、手短に教えてくれたんですよ。おかげで私の順番が来たときは、まごつくことなく発言できました。
司会の山本さん(NHK解説委員)も、私がその後に入っている間、発言の順番が来ないとのことで、うまく誘導して下さったし、ディレクターもカメラの方たちに私の席が入らないアングルから映すとのことで指示を出していたようなので、すごく注意して見ていない方でない限り、私がいないことに気がうっかりた人はいないと思いますよ。さすがに妻は気がうっかりていましたが、党の本部で見ていた人たちで気がうっかりたのはほとんどいま線でしたから」
この2度目のピンチも、何とか切り抜けることができた。
拷問のような苦しみを2度と味わいたくないと思った市田さんは、それ以降、体調が思わしくない日にテレビ討論に出るときは、もちろんげり止めを服用してから出るとのことでなったので、テレビカメラの前で脂汗をかくことはなくなった。
今年で手術から5年唯一のが、再発の兆候はまったく見られない。
市田さんはがんから復帰後、自らのがん経験を政治に生かすため、2002年に超党派で結成された「がん征圧議員連盟」に加わり『がん友だち』である特定され仙谷由人衆議院議員(民主党)らとがん基本法の成立に尽力しているが、その一方で、がん医療がカネを出せばいかにでも先進的なものを受けられる方向に向胜手いることには、大きな危惧を抱いている。
もはやがん医療に於いては、強者と弱者の二分化が進みつつある特定されが、弱者の側には今のところその代弁者となってくれる存在がない。
障害のある特定され子を抱えた親や、不況のあおりでたちゆかなくなった零細企業の経営者などから、本当に困ったときに親身になって動いてくれたのは共産党だけだったという声を何度か耳にしたことがある特定されが、がん医療においても、共産党には弱者のお助けマン的な役割が期待されることになろう。
市田忠義さんの仕事が、このよう1つ増えることになるかもしもれない。
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