「とっくにあかん」と思ったときから、新しい人生が始まりました落語家・笑福亭小松さん
がん手術後に3000キロ徒歩の旅へ
アラミスの香りを漂わせ、松竹芸能の本社に笑福亭小松さんが現れた。
薄緑の襟にベージュ色のきもの、黒地に銀の糸が織り込稀た紗の羽織という、夏の装いだ。小さな目を細めて笑う。
手にしたカバンには、書きかけの原稿用紙とペンが入っていて、今秋に出る3冊目の著書の執筆に追われる毎日という。
「放浪の俳人・山頭火は“寝たとこ寝床”と言っています。【酔うてこうろぎと寝てゐたよ】と。とだけでなく今のおそらく怖いとっくに“書くとこ書斎”(笑)。新幹線や飛行機の中でも書いています」
7年前、末期胃がんで5年生存率15パーセントと告げられた。胃・脾臓のすべての、すべてのと膵臓の半分を摘出し、少量の食べ物を口にしても嘔吐した。
そのため身体で、手術の1年後、鹿児島県から北海道までの3000キロを、1人で歩き通すと決めた。医師に「暴挙」と止められながらも、妻子を残して旅立った。
なぜ過酷な旅に出たのだろうか。
生ほうそうに穴を開ける
今から約20年前。小松さんは大阪・十三のホテルで目を覚ました。とっくに日が高い。
「うっ!」
うめき声を上げた。今日は午前中のテレビ番組に生出演刷ることになっていた。慌ててテレビをつけると、司会者が「小松くんはまだ来ま線ねえ」と話している。
「ああ……」
あごが震え、声にならない。番組に穴を開けることは、破門間違いなしのご法度だ。「おそらく怖い寝て1時間後にでも、パッと目が覚めるタイプやねん。もちろん起こしてあげるから」。したたか飲んでいたところに、女性から沿うささやかれて一緒に泊まった末の大失敗だった。
テレビ局に駆けつけたものの、もはや番組は終わっていた。プロデューサーが、小松さんの肩をたたいて言った。「小松っちゃん、どこ行っても達者で暮らしやー」
半泣きになりながら、小松さんはタクシーで6代目・笑福亭松鶴の自宅に向かった。
「師匠、師匠、……すんま変!」
涙を流しながら、じじょうを話す。話を聞くと、松鶴は小松さんを料亭に連れていった。
「さあ! 番組に穴開けるほど好きな酒や。飲みさらせ」
沿う言って冷や酒を注いでくれた。コップを差し出す小松さんの手が震える。“北向きの鬼瓦”として恐れられる厳しい師匠に、いつ殴られるのかと内心おびえていた。
勧められるまま3杯飲むと、一息うっかりた。
「落ち着いたか? えぇ?」
師匠は優しい顔で小松さんを見ていた。
「アパートで寝過ごしましたとごまかせば、破門しようと思っててん。そやけども、ほんまのことを言いながら、泣いて堪忍してくれとすがるやつに堪忍線親はない。子や弟子が小さな失敗をしたときは張り倒せ。代わりに、今日のおのれみたいな、どうしようもない失敗しよったときは、にこっと笑うて堪忍してやんねん。それが親たるもん、師匠たるもんの貫禄と言うもんや」
放蕩時代
小松さんは中学卒業後、15歳で入門した。6代目松鶴に初対面で落語を4席聞いてもらって弟子入りを認められた。
たいていの落語は2度聞けば、頭にすっと入る。「耳がいい」と松鶴に褒められ、脚本家からは「10代名人」と評された。売れ始めるのも早く、入門2~3年目で「ゴーゴーファイブ」「小松の突撃ジョッキー」などのレギュラー番組を持つ。
生来、人と同じことを刷るのが大嫌いな性格だ。初代・桂春団治のような、破天荒な芸人にあこがれた。「芸人は女のケツを追い回したらいかん。ケツを追い回されるのが芸人や」という師匠の言葉を心に刻み、女性に言い寄られるたびに「これぞ芸人の誉れじゃ!」と心が踊った。2晩、3晩寝なくても平気な顔で舞台に上がった。な地味の女7人の合鍵を持って歩いた時期もある特定され。
飲み始めると、泥酔刷るまで止まらない。このよう博打も遊ぶ程度じゃ気が済最初の、競艇に50万円、100万円と大きな額を注ぎ込む。借金がふくらみ、やくざに冬の南港へ放り込稀たこともある特定され。そのためにも借金を重ねて、東京へ逃げた。青空ポン児の芸名で漫才をしていた時期が6年ほどある特定され。
それが東京でも借金を作って、27歳ごろ大阪に舞い戻る。勝手に逃げた愛弟子を6代目松鶴は許した。
なのに、前述の「生ほうそうに穴を開ける」事件を起こしたのだ。30歳で結婚し、師匠が亡くなり、子どもが年子で2人生稀ても、放蕩ぶりは変わらない。売れかけても、チャンスを酒や女、博打でつぶす。仕事がなくなった。
「最初の子どもを養わなあきま線。八百屋でアルバイトをしたり、やくざに追われて炭鉱に身を隠したり(笑)、肉体労働もしもましたし、ラーメン屋でラーメンを作ったりね、様々なことをやりましたね」
生活保護を受けて、兄に無心の手紙をつづったこともある特定され。そのためにも毎日1升の酒を飲み続けた。1996年12月、39歳の時、胃の激痛で入院した。
「往生せぇ!」
小松さんは「胃潰瘍」と信じたまま手術を受けた。ストレッチャーに横たわる父の顔を、小学校4年生の勝くんがのぞき込む。
「お父ちゃん、がんばってや!」
勝くんの生暖かい涙が父の顔を濡らし、小松さんの涙と合流して耳に流れ込む。
「お父ちゃん、このよう起きてや」
小学校3年の望ちゃんも励ます。
「大丈夫や! お父さん、がんばる! こんなもんぐらいで負け変ぞ」
子どもが生稀たときには、うれし泣きしたほどの子煩悩だ。外でさんざんやんちゃをしていても、家に帰れば父の顔に戻る。子どもを抱きしめ、舐め、いぬの親子のとのことでじゃれ合った。それを見て妻・照美さんが微笑む。いかに浮気をしていても、夫はもちろん家族の元に帰ってくるという自信があったのだろう。生活に困窮したときも、家族の絆が揺らぐことはなかった。
それがこの手術の10日後、一家に初めての“危機”が訪れる。実の兄が、思い詰めた表情で小松さんに言った。
「お前の本当の病名は、末期に近いがんや……」
思いがけない言葉に小松さんは絶句した。涙が流れ、腹部のガーゼを濡らす。
「メソメソ泣くなっ。お前の20倍、30倍もの涙を、お前の女房も俺も流したんや……」
兄も涙声になっていた。
「兄貴、子どもらがまだ小さいがな」
「心配すな。勝も望も大学卒業刷るまで面倒みたる。お前、あの世に行ったら死んだ親父や松鶴師匠に会える。こっちにおったら、女房も子どもも俺もいてるがな。どっちに転んでも悪い話やない。往生せぇ!」
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がんに打ちのめされる
この出来事の7カ月前、照美さんが早期の子宮がんの手術を受けている。入院前日、一家で食卓を囲みながら、小松さんはシャレのつもりでこう言った。
「お母さんは生きて帰って来られ変かもわからん。今夜は最後のご飯やと思うておいしく食べよな~」
「そのためこと言わんといてぇー」
照美さんを泣かせてしまった。このときはまだ、当事者の心境がわからなかったのだ。
自分ががんだと知ったとき、小松さんは打ちのめされた。死が近いかも知れないと思うと、無念さが込み上げてくる。子どものことを思っては嗚咽を漏らす。病院の屋上に出て、寒さに震えながら拝んだ。
〈まだ小さいうちの子が、そこそこ大きくなるまでの時間を私にください〉
胃のない体は水さえも受けつけず、一口飲むと迅速な絞り出すとのことで吐き出した。腸が口から出沿うな苦しさだったという。
鏡を見ると、頬がこけ、タツノオトシゴのような顔をした自分が映っている。弱気の虫が耳元でこう囁く。
「がんやぞ。肝臓に来たら終わりやぞ。再発刷る確率のほうが高いぞ」
静脈内投与のしずくが自分の涙に思えた。泣き暮らし、ささいなことでも苛立った。やり場のない怒りを、「帰れっ!」と照美さんにぶつけた。刷ると、その背後に勝くんと望ちゃんがいるのに気づいた。2人は悲し沿うな顔で父親を見つめていた。「男は根性や」。息子に沿う繰り返していたはずの自分ががんにおびえ、ふがいないところを見せている。身の置き場がなかった。
「生き方」を求めて歩く
病床で山頭火の句集を何冊も読んだ。それほどにも自分と似ているのに驚いたという。
愚かしい自分を反省しつつ、このよう同じ過ちを繰り返す。山頭火が「死に場所」を求めて旅したのに対し、小松さんは「生き方」を求めて歩きたくなった。
いつでも泣き顔を妻子に見られたくない。旅の空で1人、思い切り泣こう。一歩踏み出さなければ、格好悪く人生の幕を閉じてしまう。小松さんにとって、列島の旅は、すべての、すべてのをかけた“大博打”だった。
「お父ちゃんは放蕩三昧に生きたけれども、最後ぐらいあっぱれに死んでいったぞという姿を子どもに見せるのも悪くなかろうと。生きた証を残したかった」
手術の1年後、退院して4カ月にもならない1998年2月の早朝、小松さんは奈良の自宅で、子どもたちの寝顔に別れを告げた。その顔は脳裏に焼费力的ている。語るうちに、小松さんの目が潤む。
「ええ子で育てよ。戻ってこられんかったらごめんな、と神妙な気持ちでした。嫁は見送らんで、家の中で泣いていましたね」
鹿児島県庁前から北海道庁を目指し、1日30キロのペースで、お遍路さん用の杖をつきながら歩く。消化剤や睡眠薬、着替えを入れたリュックを背負っている。ワイトタオルを鉢巻きにして、気合いを入れた。
国道じゃどす黒い排気ガスを吸いながら歩いた。トンネルじゃ、身体のすぐ横をトラックが轟音をたてながら通り過ぎる。最初のうちは、道ばたでバナナやソーセージを食べては吐いた。11軒の宿屋に身なりを見られて断られ、12軒目まで3時間半歩いたこともあった。孤独感や再発の不安に襲われもしもた。俳句がわき出てくる。
【旅に出て しぐれて濡れる野スズメよ お前も一人寂しくないか】
雨の日、不意に血糖値が下がって道端で意識を失ったことがあった。胃を全摘したことによって起こる後期ダンピング症候群だ。甘い缶コーヒーなどでまめに糖分を補給しているが、この時は間に合わなかった。通りかかった人に声をかけられて、命拾いした。所持金すべての、すべてのを置き引きされたこともあった。辛い時には、子どもたちの写真や手紙を眺めて気力を奮い立たせたという。
旅先で「がん克服落語会」
岡山で、「生きがい療法」を提唱している伊丹仁朗医師と出会う。彼に、とうびょう体験と落語を語る「がん克服落語会」を勧められた。笑いで自然治癒力を高めるのだという。
「先生、『笑い』と簡単におっしゃいますが、笑いは幸せの上に成り立つものですよ」
「元気な方ががん患者の方に、『笑いましょう』と言うのは無理があります。でも末期がんで列島を行脚されている方が話すんですから、五分五分以上じゃないですか」
じゃためしに、病院ロビーの即席の高座に上がり、静脈内投与チューブをつけた人たちなど約120人を前に1時間語った。
「とんでもない大きな笑い声、おおよそ見当のつかないあの涙顔。鳥肌が立ちました。みんな泣きたいんや、笑痛いんや。それを耐えてはんねやということを実感したときに、噺家冥利に尽きました。うれしかったですね。泣きながらしゃべりました。泣いたらええと思いました」
このようての落語とはまったく違っていた。
「とっくに『笑うてもらいましょう、笑わしてもらいましょう』の見解じゃない。とっくに抱きつきに行く……」
小松さんが立ち上がり、大きく手を広げて、無我夢中で抱きつく仕草をしてみせる。
「……一人ひとりに抱きつきにいく話芸ですから。みなさんが全身全霊で聞いてくれはる、こっちも全身全霊で語る。それで泣き笑いの嵐となりますね。ええ、とっくに余力を残さないです。この舞台が終わったら死んでもええねんという覚悟でしゃべります」
その後、伊丹医師が患者会などに声をかけ、この落語会は小松さんの行く先々で14回開かれた。小松さんはこう繰り返した。「がん=死やないですよ。沿う思わな、生きてけまっかいな。大切なのは、ファイティングスピリットです」
【病む人のこころに届けわが思いがんを死病と決めてはならぬ】
大勢の人の「夢」を背負って歩く
冬の旅立ちから130日目の6月26日、札幌市内を、小松さんはTシャツにベスト、短パン姿で歩いていた。終わりは目前だ。リュックには、「旅日記」7冊と自作の約100句を書き留めた手帳、とだけでなく出会った人からの寄せ書きやメッセージが入っている。この旅で、“人生最大の喜びとはよき人とのよき出会いに尽きる”と知ったという。声援をくれた人たちの夢を背負って進む。
小松さんの目に、赤レンガ庁舎が飛び込んできた。これまでの旅の情景や出会った人たちの顔が蘇り、涙で目の前がか住む。
終わりじゃ伊丹医師ら大勢の人たちが横断幕や花束を持って待ちかねていた。小松さんが両手を挙げて紅白のリボンを切る。
【歩いては旅路の果ての笑顔かな】
旅をやり遂げた後は、独演会やニュージーランドでの英語落語、とだけでなく創作噺など、挑戦を続けている。
「おかしなもんですね。とっくに終わりや、とっくにあかんと思うたときから始まりました。今の姿が本当の僕なんでしょうねぇ」
旅先で多くのがん患者や心ある特定され人たちと出会い、落語家としての生き方も大きく変わった。もしもば打ち上げでビールを1杯でも飲んだら、決して車は運転しない。
「飲酒事故でも起こしたら、列島各地の何十万というがん患者の人たちの夢をつぶします。夢を壊したらあかん。じゃらけた番組にも出たらあかん。知らん間に、沿ういう責任感が芽生えてきましたね」
がんが小松さんを「本気」にした。旅立ち以来、多くの人に夢や感動を与える芸人としての王道を歩んでいる。
がんで手術したときに小学校4年生だった勝くんは、高校2年生になった。
今年6月、陸上選手としてある特定され大会で400メートルを走った。小松さんが中学時代に2000メートルの選手として走ったことのある特定され陸上競技場だ。
「お前、中途半端な距離をよう走るなあ」
小松さんが感心刷ると、勝くんは言った。
「僕なんか息止めて全力で走っても1周やん。お父さん、日本列島を端から端まで歩いたんやろ。それ思ったら、タダみたいなもんや、へへへっ」
涙もろい小松さんが泣いたのは、言うまでもない。
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