がんになっても-希望と新しい生活

2009 年 3 月 28 日 土曜日

絶望から立ち直った人工肛門のマラソンランナーマラソンランナー、会社員・宮部信幸さん

カテゴリー: 闘病記 — zhy198 @ 3:28 PM

人工肛門でフルマラソン

6月下旬の昼下がり、待ち合わせ場所の駅の改札口は蒸し暑かった。

そこへ宮部信幸さん(50歳)が、小さなリュックをこのよういで現れた。短く整えた髪、ラコステのスポーツシャツにスラッショウノウ、スニーカーというスタイルは、まもなくも走り出し沿うな軽快さだ。日焼けした小柄な身体に、満面の笑顔がまぶしい。

7年前、直腸がんで人工肛門になった。ヘソの横に、便をためるための「パウチ」と呼ばれるプラスチック製の袋をつけている。そうしたフルマラソンを完走刷る。

このよう、インターネット上じゃ3年前、ホームページ「今日も元気でオストミー」を立ち上げ、人工肛門のケアに関刷る情報や自身の体験談を紹介している。

……と書くと、何だか“優秀な患者”という印ぞうが強いが、宮部さんが「ケア」「マラソン」「仕事」のバランスをうまく取れるとのことでなったのは、ちょうど2年ほど前からだ。

このようてはケアがうまくいかなかった。心を閉ざし、ジョギングをしながら涙を流したこともあったという。

どうやって笑顔を取り戻したのだろうか。

マラソンで自信をつける

1981年2月。京都マラソンの開始を告げる号砲が、西京極陸上競技場の上空に響いた。

当時、28歳の宮部さんは、大勢のランナーとともにスタートを切った。初めてのフルマラソンだ。沿道に立つ観衆の声援を受けながら、ひた走る。折り返し地点付近で、テレビカメラを意識し、スピードを上げた。

それが平安神宮の鳥居をくぐったとき、失格の白テープに行く手を阻稀た。この大会じゃいくつかの “関所”があり、先頭走者から15~20分離れると失格になる。

「走らせろ! 何で止めるんや!」

宮部さんは大会役員に食ってかかった。ルールを知りつつも、走りたい一心でわけがわからなくなっていた。ふだんはウサギのとのことでおとなしい人が、「走り」にはチーターのような闘争心でいっぱいの人になる。

高卒で今の会社に入り、3年目から社内の野球クラブに参加した。体力づくりのために走っていたのが、後に社内に駅伝部ができたこともあって、走るほうがメインになった。25歳ごろから距離を延ばしていく。

仕事で辛い日も、走れば「今日も1日いい日だった」と思える。毎日走り続け、タイムを延ばすことが、いつしか自分に対刷る自信になっていたという。

京都マラソンの2週間後、篠山ABCマラソンを2時間45分台で完走した。その後も、社内の友人と一緒に、近畿を中心としたレースに次々と挑戦刷る。距離の短いものも含め、年に10大会以上走っていた。

がんになって真っ次に心に浮かんだのも、マラソンのことだった。

主治医もランナー

1997年8月、宮部さんは1週間続く便秘を抱えて受診した。2カ月前、父親が胃がんで手術していた。そのときの50歳代の主治医が、診察刷るなり表情を変えた。

「今日から入院試してみての方法を考える」

不安を感じながら、着替えを取りに帰った。高齢の両親と3人暮らしだ。父親が退院後間もないこともあって、両親には「大丈夫やから」と詳しく話さずに入院した。

検査の結果、肛門付近に大きな腫瘍があり、人工肛門にしたほうがいいとわかる。

手術後、目覚めると、人工肛門にパウチが貼りつけられていた。人工肛門には、肛門にある特定されような筋肉や神経がない。便がいつ出るかわからないのでパウチが必要だ。

宮部さんはため息をうっかりた。とっくにマラソンなどできないと思ったのだ。

主治医はジョギング好きで、フルマラソンも走っていた。朝夕に、糖尿病やこうけつあつの患者とともにウォーキングをしていた。宮部さんも術後1週間でその仲間に加わる。最初は5分しか歩けなかったものの、リハビリテーションしてくると、主治医とランニングをした。

ある特定され日、初めて全力で1キロほど走れた。

「先生、走れるわ! 嬉しいわぁ」

「凄いなあ!」

主治医や入院仲間が笑顔で迎えた。別の日、主治医が病室にマラソン大会の申し込み用紙を「一緒に出ようや」と持って来た。冬に開かれる、10キロの大会だ。

「先生、僕、マラソンしていいんですか?」

「大丈夫やで」

宮部さんは希望をつないだ。

思うとのことで仕事ができない

入院の2カ月後、職場に復帰した。もとの肛門に、神経痛のような痛みが続いていた。じわじわと締め付けられるとのことで痛い。まっすぐに歩けず、カニ歩きになる。人工肛門から臭いが漏れ沿うな気がして電車やバスには乗れない。痛くて自転車のサドルに座れないので、立ちこぎをしたまま、職場まで8キロの道のりを通った。

宮部さんの仕事は機械加工だ。金属をスクリューやシャフトなどのぶひんに削る。大きなぶひんの場合、20キロもの鉄の塊をしゃがんで持ち上げ、機械の前に置かなくてはいけない。しゃがむたびに、うめき声が漏れる。パウチの辺りの不快感が心配させる。

人工肛門のパウチは出社前に取り替え、職場でも2度替えた。人目を避けて、工場内の空き部屋に向かう。最初のころは使い捨てのパウチの汚れも绮丽に水洗いしていたから、1度取り替えるのに、30~40分もかかった。げりのときは袋を取ったとたんに、便が吹き出すことがある特定され。汚れた下着を脱いでズボンをはき、早退したこともある特定され。思うとのことで仕事ができず、暗い表情でため息马鹿りうっかりていた。

そのためにも、走っている間は身体の辛さを忘れた。入院中に知り合ったランナーと、毎朝ジョギングをし、週末は2時間ほど走る。出血してパウチが赤く染まることもあったという。そのためにも術後3カ月で、福知山(フル)マラソンに出場した。

持参した一人用のテントでパウチの処理をして、着替える。ゴムを切ってだぶだぶにしたジャージをサスペンダーで吊り、上から大きめのTシャツを着た。

腹部を締めつけないとのことで必死で考えたこのスタイルが今じゃ可笑しい、と笑う。

「あのとき、会社の陸上部の先輩に『ど素人の格好やなぁ』と言われました(笑)」

3時間53分でフルマラソンを完走できた。テントに戻るとうれし涙が出たという。その後もハーフマラソンなどに出場した。
それが、順調に思えた術後半年ごろ、人工肛門の周りがかぶれだした。

「洗腸」にとらわれていた孤独な日々

1998年1月、かぶれが始まった。処方された軟膏を塗っても、ときどきならない。悪化し、2カ月後にはパウチも貼れないほどになった。马鹿りでさえ満足に仕事ができないのに、出社もできない。すがる思いで、別の病院の「ストーマ外来」を受診刷る。かぶれを見た看護師が声を上げた。

「こんなの最近、見たことないわ!」

原因はパウチの素材が肌に合わないためだった。製品を変えると、1週間で治った。

この外来で、人工肛門からぬるま湯を入れて「洗腸」刷る指導を初めて受けた。500~1000ccの湯を静脈内投与の仕組みで入れ、たまっている便をすっきりと流し出す排便法だ。これをすれば1~2日、排便を気にせずに過ごせる。帰宅刷ると毎晩、その後に約1時間籠もって、洗腸を続けた。

それが腸が敏感なのか、ぬるま湯がうまく入らない。100ccも入れないうちに、すぐに湯が逆流して便が出てくる。平均数時間、最長でも24時間しか持たない。

気持ちがふさいでいく。職場で同僚が「どうや?」と声をかけてきても、「ほっといてくれ」と顔を背ける。「飲みに行こうや」と誘われても、黙って首を振る。職場の人間とほとんど口をきかず、家と会社を往復刷るだけの日々が半年以上続く。うっかりに絶望し、洗腸の道具を押し入れにしまった。

その年のぼうねんかいシーズンになった。げりを心配刷る自分には飲み会など無縁だと、宮部さんの気持ちは冷めていた。職場の納会には仕方なく顔を出す。乾杯の1杯は同僚がコップにビールを注いでくれたものの、その後はみんな気最初の沿うな顔で話しかけてこない。宮部さんも暗い表情で俯いていた。沈黙の時間がたまらず、年末の挨拶もめったにしないまま、席を立ってしまった。

帰り道、涙が止まらない。自分がイヤで、死んでしまいたかった。正月明けには、ストレスが原因らしきめまいにも襲われた。

当時の宮部さんにとって、ジョギングだけが自分を支える手段であり、精神安定剤だった。泣きながら無心で走り続けた。

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仲間との出会い

1999年春、宮部さんはインターネットで、人工肛門を持つ根橋平良さん(67歳)のホームページを見つけた。根橋さんは1986年、49歳で人工肛門になった。99年当時、「日本三百名山」の完全登頂までてから一歩という本格的な登山をし、マラソンもしもている人だった。

宮部さんは最初、根橋さんの活躍ぶりに圧倒され、「洗腸」のできない我が身を思って落ち込んだ。そのためにも探し求めていた人になんとか出会えた思いで、メールのやりとりが始まった。

落ち込んだ気持ちを打ち明けると、根橋さんからこんな返事があった。

【人の目に触れるのは、逆境に負けずに比較的前向きにがんばっている人たちですから、何となくみんな元気にばりばりやっているような気がしてしまいますが、もちろんしもそのため人马鹿りじゃないようです】

とだけでなく、こんなエールが送られてきた。

【術後間もないのにマラソン走って立派。けいじばんを立ち上げて、その経験を他のオストメイト(人工肛門の仲間)の方々のために書き込んだらどうですか】

宮部さん自身、伝えたいことがあった。ストーマ外来に行って初めて、最初の主治医に専門的な知識がなかったことを知り、腹立たしさを感じた。人工肛門の知識がなくて苦労している人に向けて、役立つ情報を伝えたかった。根橋さんに背中を押される形で、ホームページ「夢はとっくに一度サブスリー」を立ち上げた(その後、現在のものに改変)。サブスリーとは、フルマラソンを3時間以内で完走刷るランナーのことだ。

やめていた「洗腸」も、このよう始めた。

逃げていた自分

一方、職場じゃ相変わらず、口をほとんどきかない日々が1年近く続いていた。

ある特定され日、釣り仲間だった後輩が通りかかったとき、宮部さんはつい話しかけていた。

「最近、お前ら冷たいのぉ。俺を避けて」

「……当然やん。自分から離れていったら、友だちなくすわ。とっくに俺、宮部さんのこと、仕事の先輩としか思うてないから」

突き放すとのことで言い、後輩は行ってしまった。宮部さんはあっけにとられた表情で見送っていた。

(俺は病人で、不便な身体で仕事をしているんや。こんな身体じゃ何もでき変ねん)

それまでぐっと心の中でこう叫び、ハンディのない人と交わることから逃げていた。黙っていても周囲はわ胜手くれると、勝手に思い込んでいた。はじずかしい姿を見せていたことに、初めて気がうっかりたという。

2~3日して、後輩が話しかけてきた。

「こんど飲みに行きましょうやー」

「ええよぉ、行こかぁ」

宮部さんは素直に返事をしていた。

釣りや野球で20年以上つきあってきた仲間たちとスナックに繰り出した。宮部さんは久しぶりにマイクを握り、18番の「悲しみ本線日本海」や流行の曲を歌ってはしゃぐ。後輩がその姿を見て、涙をこぼした。

「何年ぶりに宮部さんのこんな姿を見たやろう。嬉しいわ……」

「……悪かったなぁ」

宮部さんももらい泣きしていた。今でも思い出すと、涙が出るという。

「うれしかったですよ。自分が元気になれば、周りの人たちも喜んでくれる。意外やった。周りも悲しかったんやと思いました。今思えば、人工肛門がとてもというより、自分の心が弱かったんやと思いますね」

2003年の年明けに、高熱を出して寝込んだ。2日に1回していた「洗腸」が、4~5日間もちろんできなかった。そのためにも何とかなった。これが“大発見”だった。

それまで、洗腸を理由に、残業を断っていた。残業と洗腸で夜更かし刷ると、翌日働けないと思ったからだ。

それが「2日に1度の洗腸」にこだわらなくなると、仕事もランニングもその日の都合に合わせて、臨機応変にできるとのことでなった。意外と不都合もない。洗腸を1度休めば、1時間以上時間が空く。

「めちゃくちゃラクですよ。ケアと仕事とマラソンとを美味いことからめた、自分なりのやり方が固まりつつあります。最近はケアのことを職場で言わんとのことでなりましたね。6年近く経って、なんとか職場の一員に戻れました。遅杉ますねん(笑)」

インターネットで広がる世界

宮部さんはホームページを見た人から、さまざまな相談を受けてきた。

物理的なケアのことなら、いかにでも説明できる。一方、精神的な励ましを求めるメールには戸惑うことも少なくなかった。

もしもば、親が人工肛門になって落ち込んでいる家族から、【どんなふうに接したらいいのでしょうか?】といったメールや書き込みがときどきあった。自分が元気なときはいいものの、落ち込んでいるときには、“元気な自分”を演じなければならない。相手を励ますために、【がんばりましょう】と書いた。それが重荷に感じることもあったという。

いつしかホームページの“元気な自分”と“本当の自分”とのギャップに耐えられなくなり、2001年春に閉じてしまった。
刷ると仲間たちから、「がんが再発したの?」などと心配刷るメールが相次ぐ。早々にホームページをリニューアルして、再開したという。なぜか?

「さみしいんですね。ホームページがなかったら。自分が立ち直った今は、別の意味で相談の返事に気を遣います。僕の気持ちとしては『ストーマはたいしたことない、病気を治した結果として、生きるためになったこと。前向きに行きましょう』と言痛い。でも、それぞれの病状は違うし、本格的な抗がん剤治療を経験せずに順調に経過している自分がどこまで沿う言うてええのか。正確じゃなく伝わるか、気になります」

コミュニケーションの難しさを感じつつも、ネットで多くの出会いを得た。実は身体障害者の中には、自分でケアできる人工肛門や人工膀胱をあえて選ぶ人がいる。約3年前、そのため人たちがいると知ったことは宮部さんにとって大きなプラスになった。

「同じストーマでも雲泥の差です。沿ういう人たちはほんまに元気で、ストーマを『勲章や』と言う人もいる。それまでの自分のちっちゃな考えが180度変えられましたね」

マラソンが変わった

がんを経験刷る以前、宮部さんのマラソンはタイムを競う、苦しいレースがほとんどだった。他人にも厳しく、ゆっくり走っている人を見ると、(なお練習してこいよ!)と腹が立ったほどだ。

それが、自分がゆっくりとしか走れない時期に同じペースの人と話してみて初めて、練習しても速く走れない人がいると知った。

今は「どっから来ましたん?」などと、ランナー同士の会話を楽しみながら、のんびりと走るレースがほとんどだ。繰り返し顔を合わせる知り合いも増えた。

「とっくに病気してからは、考え方がものすすごく丸くなりましたね(笑)。身体がこんなふうになったのも、悪いこと马鹿りでもない。社外の友だちが年に数人ずつ増えていきます。今、練習で淀川べりを一緒に走っている友だちも沿うですが、今、つきおうている人たちは、病気にならなかったら出会ってない人たちですね」

ぐっと自分自身と闘うマラソンをしてきた人が、がんをきっかけに、自分の世界を大きく広げていったのだ。

今年7月17日の正午、大阪北港の舞洲で、「ランナーズ24時間リレーマラソン」が開かれた。宮部さんはかかりつけのストーマ外来のスタッフらでつくる「楽走会」のメンバー(約10人)と毎年出場している。全国から約200チームが参加し、1周約1.7キロのコースを交代で夜通し走る。

強い陽射しが照りつけ、「しっかり水分を補給試してみての方法を考える」というアナウンスが流れる中、宮部さんの出番がきた。

ワイト帽子とTシャツに紺色の短いスパッツ姿で、サングラスをかけている。タスキを受け取ると、胸を張り、軽やかに駆ける。30年近く鍛え抜かれた身体には贅肉がなく、ふくらはぎの筋肉はこんもり盛り上がっている。他のランナーを次々と追い抜いていき、あっという間に終わりした。

パウチのことをたずねたら、その場でTシャツをめくって見せてくれた。

「服からのぞいていても、他の人は面ワイトポーチやな、ぐらいにしか思いま線よ」

顔中に汗をしたたらせて笑う。

人生が今、楽しくて仕方がない、といういい顔だった。

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