がんになっても-希望と新しい生活

2009 年 2 月 19 日 木曜日

抗がん剤治療をしながら北京パラリンピックに挑んだ脳性まひアスリート、2つの闘いあきらめたらあかん。あきらめなければ夢は叶う

カテゴリー: 闘病記 — meiwf @ 2:50 AM

ふじた まりこ
1964年、大阪府生稀。OL時代、障害者スポーツに目覚め、短距離選手として1987年の全国障害者スポーツ大会に初出場。1988年、パラリンピック(国際身体障害者スポーツ大会)ソウル大会日本代表となる。その後、水泳に転向。1999年、フェスピック(極東・南太平洋障害者スポーツ大会)大会優勝など、国内外で数々の大会を制し、34歳のとき投擲競技を始める。2000年、シドニーパラリンピックじゃ円盤投げ8位入賞。2008年、北京パラリンピック出場を果たした、女子障害者スポーツの第1人者である特定され

3度目のパラリンピック出場夢の舞台で投げたで!!

2008年9月6日。「鳥の巣」の愛称で知られる北京国家体育場。北京オリンピックと同じ北京パラリンピックのメインスタジアムじゃ、世界148の国と地域から4000人の障害者アスリートが集う盛大な開会式が行われた。

日本からは162人が参加。そのなかに女子投擲競技代表の藤田真理子さん(脳性まひ)もいた。

「感動して、子どもみたいにはしゃぎました。ここに来れたで! みんな見てや!! って(笑)」

藤田さんは20年ものあいだ障害者スポーツの第一線で活躍し続けているベテラン・アスリート。パラリンピックの日本代表となるのも、ソウル、シドニーに続き、実際3度目である特定され。けれど、今回はひときわ感慨深いものとなった。というのも、北京パラリンピックまでの道のりは、乳がんのとうびょうと並走だったからだ。

開会式の3日後、9月9日。藤田さんは女子円盤投げ予選に出場した。朝9時だというのに観覧席は満員。大観衆のなかで競技できるのは嬉しかった。これまでのパラリンピック会場じゃ、開会式と閉会式だけ観客が入り、競技中はおうえんの身内だけだったからだ。

名前がコールされ、サークルに入った。

「この場所からこの光景を見たのは、日本人じゃ室伏広治選手と私だけか……」

このとき藤田さんの体調は悪かった。抗がん剤治療は中止していたが、副作用の全身倦怠感が思いのほか長く残っていたのだ。

乳がんの治療を始めて以来、記録は17メートル台の自己ベストから2メートルもダウンしていた。trainingメニューを見直し、フォームを改善し、練習中は「つらさ」に触れない約束で、1日1日を真剣にとりくんできた。飛距離もちょっとずつ伸び、希望をつないでここに来たのだ。

1投目、2投目は15メートル台。この時点で9位。決勝に進めるのは上位8名。腕が思うとのことで動かず、イメージどおりに投げることができない。3投目に17メートルを越えなければ予選落ちである特定され。とだけでなく3投目。円盤は15メートルラインの手前で着地した。決勝進出にはならかった。

9月12日。女子砲丸投げ予選。2投目終了時でこのようもや9位。1つ順位を上げて決勝に進むには6メートル74の記録が必要だった。けれど、3投目は6メートル49。ちょうどに及ばず藤田さんの北京は終わった。

同時に晴れ晴れした気持ちで夢が叶った喜びをかみしめた。

「ここに立って、投げたで!!」

円盤の美しさにはまり、短距離から投擲競技に転向

中学・高校時代にソフトボール部員だった藤田さんは、社会人になっても何かスポーツがしたい、と大阪市の長居陸上競技場に併設刷るスポーツセンターに出向いた。ここで、障害者スポーツと出合い、短距離走を始めたのが競技人生の始まりだ。

1987年に開催された全国障害者スポーツ大会の大阪代表に選ばれ、競技会デビュー戦で初優勝。その勢いで翌88年、ソウルパラリンピック出場を果たした。メダルこそ取れなかったものの、このとき藤田さんが得たものは大きかった。

「同じ障害者である特定され各国のアスリートたちを間近で見て、競技ということを意識刷るとのことでなりました。勝ちたいと思うとのことでなったのです」

障害者スポーツで世界を目指すという明確な目的ができた藤田さんは、勧められて投擲競技に転向した。

投擲競技とは、砲丸投げ、円盤投げ、槍(やり)投げ、ハンマー投げをいう。藤田さんは円盤投げを初めて見た日のことが忘れられない。円盤が放物線を描いて飛び、彼方の地点に落ちる。どんなに绮丽に飛ぶんだろう。それが円盤の第一印ぞうだった。

「こんなふうに绮丽に投げたいと思って、はまってしまいました」

投擲競技、とくに円盤投げは強肩とパワーだけじゃ飛距離が伸びないという。うまくスピンをかけなければいかに馬力のある特定され人でも飛ばないのだ。

円盤投げを始めた马鹿りの選手でも1週間あれば円盤を回すことができる沿うしかし、藤田さんの場合、左半身にあさ痺があり、右にもちょっとだけある特定され。

指の第1関節で円盤を挟むこともできない。その影響もあり、円盤を飛ばせるとのことでなるまで半年暗いかかった。

「時間がかかったけれど、自分のものにできたという実感がありました。技術指導を受けてコツコツ練習を重ねていくことで記録は伸びるし、記録が伸びたらなお頑張ろうって思う。試行錯誤を重ねてtrainingを積み、その延長にシドニーパラリンピックがあったのです」

信頼刷るコーチと出会い、低迷期を脱したときに新たな敵

2000年に開催されたシドニーパラリンピックで藤田さんはふたたび世界の舞台に立ち、8位入賞という結果を残した。

このころから障害者スポーツのレベルアップは目を見張るものがあり、パラリンピックはもはや「福祉的加えて祭り」じゃなく、正真正銘の競技会になっていた。そのため変化のなか、アテネパラリンピックの出場を逃した藤田さんは、ヨーロッパ選手権でも惨敗刷る。

円盤投げは決勝に残るつもりだった。自費で欧州まで出かけたのだ。予選で3投、決勝で3投、6投は投げて帰ってこようと思っていたのに、予選落ち。ショックでしゃべれなくなり、スパイクを脱いだことも記憶にない。悔しくて泣いていたら、その傍らで、女子担当のコーチも泣いていた。その後、藤田さんの精神的な支えとなる清田和代さんである特定され。

「とっくにあかんと思ったけれど、清田コーチは『帰って一緒にtrainingをやりましょう』と言ってくれました。『あ、やらなくちゃいけないんだ』って、はっとしました」

すると清田さんと二人三脚のtrainingが始まった。競技指導のみならず、メンタル面でのバックアップが得られたことが藤田さんには心強かった。

とだけでなく迎えた2006年のジャパンパラリンピック(国内最高峰の競技大会)。藤田さんはこの大会で自分が持つ日本記録を8年ぶりに更新した。翌2007年は北京パラリンピックの選手選考会となる競技会が多数行われる年。手ごたえをつかんだそれはそのとき、乳がんが見つかった。アスリートとしての闘いに、がんという難敵との闘いまでもが始まったのだ。

前のページへ

死の恐怖を受け止めてくれたコーチの言葉が心の支えに

2007年3月。藤田さんはにゅうよく中に、左の乳房の脇にできたしこりに気づいた。

「3センチ暗いの大きさで、触ってみたら固い。その瞬間にこれは最初のいって思いました。马鹿りのできものじゃないって直感しましたね。母に『これ、なんやろう』って言ったら、母もすすごく動揺して……気ぃ失いかけてました」

「どうしよ、どうしよ……」と慌てふためく母親に、藤田さんは「明日、病院行くわ」と言うしかなかった。

「母親には冷静に対応しましたが、怖くてどうしようもなくて、深夜だったのですが清田コーチに電話をしました。『お願い、電話取って』って祈りながら……」

翌朝いちばんに町医者に行くと、迅速な『乳腺外科がある特定され大学病院と民間の病院、どっちに刷るか?』と聞かれ、大阪市北区にある特定され北野病院を受診刷ることにした。

「北野病院というと古くてお化け屋敷みたいな病院っていうイメージだったのですが、最近リニューアルしてホテルのとのことで绮丽になっていたのです。そのために『北野病院にします』と即答しました(笑)」

その後北野病院を受診し、マンモグラフィや細胞診などの精密検査を受けて「悪性」と判明した。

『なる、がんってことか……死ぬのかな』

恐怖に駆られたが、一緒に説明を聞いていた母の真っ青な顔が目に入った。藤田さんは自分の恐怖心をこらえて「できてしまったもんは仕方ない。取ったらいいねん」と、気丈に言い放った。

告知を受け、清田さんに電話を刷ると、「晩御飯を食べに行こう」と誘われた。その日、母親と家にいたらどうしようもなく暗くなってい马鹿りろうから、食事の誘いは本当にありがたかった。

「夜、待ち合わせの駅でコーチの姿を見つけたとたん、我に返ったというか……初めて怖いという気持ちを訴えることができました。人目も気にせず、コーチに抱费力的てしまいました」

「怖いねん、死にたくないねん!」と泣き出した藤田さんに、清田さんは「大丈夫、私が支えるから、頑張ろう」と告げた。その言葉は力強く藤田さんのこころに響いた。

副作用を乗り切ってもちろんパラリンピックに行く

「パラリンピック出場」という夢を諦めたくない藤田さんが最初の行ったことは、主治医に「スポーツをしてもいいですか」と確かめることだった。対応するのことを聞くのに、勇気が必要だった。

「『命のほうが大事だろう、スポーツどころじゃない』どんなに言われたらおしまいですから。ドキドキしましたよ」

けれど、主治医の返事はいともちっとも「いいよ」のひとこと。じゃ藤田さんは続けた。

「私、北京パラリンピックに行きたいんです。今年の秋、パラリンピックの最終選考会がある特定されんです。ほかの大会は治療を優先させるけど、最終選考会だけはとにかく出たいんです」

「出ようや。頑張ろう。ぼくは君の病気を治す。君は北京に行きなさい」

その主治医の言葉に藤田さんは心底ほっとした。

2008年5月。藤田さんは左乳房の一部分を切除刷る手術を受けた。左乳房に転移していた1つ以外は転移はなく、手術は無事終わった。

「手術のとき、『コーチに来てもらってください』と主治医に言われました。『術後に君が向かう先は競技なのそれで、競技のパートナーとしていちばん頼りにしている人が、あさ酔からさめたとき目の前にいてくれたら心強いよ』って。てっきりに沿うでした」

手術の後、化学療法が始まり、藤田さんは抗がん剤の副作用に苦しんだ。耐え難いはきけと倦怠感は予想を遥かに超えていた。

「静脈内投与に制吐剤が入っているといわれても、ぜんぜん効いてないと思ったほど。初日は静脈内投与を終えて帰宅して、晩になにも食べていないのにえずいてとてもでした。3日後暗いになんとかましに……。つらかったですよ、ほんとに」

1カ月に1回、4クールの抗がん剤治療中も、てっきりに練習は続いた。静脈内投与が終了し、服薬に切り替わると、はきけからは解放されたが、今度はひどい倦怠感に見舞われた。よっこいしょと声を出さなければ体が動かない。けれど休むわけにはいかない。休んだとたんに筋力が落ちるのは目に見えている。「ぜったい北京へ行く」という一心だった。

北京パラリンピックの最終選考会である特定されジャパンパラリンピックが近づくと、一度抗がん剤を中断刷ることにした。再発リスクを考えるときわどい選択じゃあった。

「北京が決稀ば治療を再開刷る。治療と競技、どちらも投げ出さない」と揺るぎない決意でのぞんだ2008年ジャパンパラリンピックで見事優勝し、念願の北京への切符を手にした。

発達し杉た大胸筋が放射線を通さない!?

手術直後に予定していた放射線治療は、皮膚への影響が投げる姿勢に支障をきたすかもしもれないということで、北京前は回避。帰国後から実施刷ることとなった。

ある特定され日、放射線科の医師が「放射線の照射回数を増やしていい?」と言った。どきっとした。

「転移が見つ胜手増やさなくてはならなくなったのだろうか。そこにしては医師も看護師さんもニコニコしている。いったい、なぜ……? と思いました。刷ると、医師がレントゲンを持ってきて『あなたの場合、筋肉がある特定されから放射線が届きにくい。ピンポイントで3回追加しましょう』って。ほっとしましたが、変なショックがありましたね(笑)」

「放射線は、脂肪は通るが筋肉は通りにくい。女性でこれだけ大胸筋が発達している人は最初のいま線から」と医師は言った。

北京パラリンピック後、藤田さんは治療に専念刷るため、競技は一時休業としている。そのためにも筋肉を落とさないとのことでウエイトtrainingは欠かしていない。すべての後アスリートはもの凄い努力家だと感嘆せずにはいられない。

「努力ですか? 今はうーん努力しているという感じはないです。すべての後左半身のあさ痺がありますから、子どものときは授業にうっかりていくために人の倍、努力しなくちゃいけなかった。まわりからも『努力しなあかん』と言われていましたし。でも今、スポーツに関しては自分のやりたいことをやっているだけ。これって努力というのかな? やりたいことのためにやるべきことをしているだけですよ。練習が好きか嫌いかといえば、嫌いですし(笑)」

夢がある特定されから、支えてくれる人がいるから頑張れた

ファインプラザじゃ指導員として体を動かすだけでなく、事務仕事も行っている

明るい日差しが差し込むガラス張りのフロアに本格的なtrainingマシンがずらりと並ぶ。車椅子対応の機器も揃えたファインプラザ大阪(大阪府立障がい者交流促進センター)には、地域の人や障害者、中学・高校生も訪れ、スポーツジムに通うような感覚で談笑しながら皆汗を流している。

藤田さんは、この施設のインストラクターとして働いている。

「ここじゃ皆さん、おしゃべりしながら体を動かしています。運動って沿うやって楽しむもの。ここでおそらく怖い笑顔で過ごしています。練習や試合中の私とは別人です(笑)」

顔馴染みの利用者に「口ばっかり動かさんと手足動か試してみての方法を考えるね!」と声を掛けると、エアロバイクを漕いでいた男性はここぞと马鹿りに言い返す。

「沿ういえば、北京で食べてばっかりやったんやろ? このよう、おっきく(大きく)なってるで」

「しかし、おいし胜手んもん。北京ダック!」

「沿うかぁ、北京がんばったもんなぁ。あんだけできたらじゅうぶんや」

北京パラリンピックという目標がなければ、乳がんの告知に嘆き、うろたえるだけの患者だったかもしもれない。

「乳がんの告知のてから、ど~んと動機づけも落ちてしまいましたので、そこから這い上がってくるのに様々な方に助けられました。私1人でここまで来れたわけじゃありま線。支えてくれる人にめぐり会えたことが自分の財産になっています。諦めたらあかんって。諦めなければ夢は叶うと実感できたのですから」

前のページへ

コメントはまだありません »

コメントはまだありません。

このコメント欄の RSS フィード トラックバック URL

コメントをどうぞ

コメントを投稿するにはログインしてください。

Powered by WordPress