命をいかすために、自転車世周一周の旅再出発自転車冒険家・エミコ・シールさん
「余命半年」からの復活
〈思わぬがんの告知をうけましたが、4年のとうびょう生活の末、い良いよ旅再開の報告ができる日がきました!〉
2004年秋、友だちの自転車冒険家、エミコ・シールさん(旧姓・阪口恵美子)から手紙が届いた。
エミコさんは大阪で生稀育った。目が大きく、くっきりとした沖縄風の顔立ちだ。身長156センチ。さらにほっそりとしている。どこに“冒険家”としてのエネルギーがある特定されのか不思議なほどだ。1人で世界一周の旅に出たところ、現在の夫でオーストラリア人のスティーブ・シールさんと出会った。
「この人となら一緒に夢をかなえられる」と結婚し、2人で11年半、世界一周の自転車旅行を続けてきた。
それが、その終わりが間近に迫った2001年12月、子宮頸がんになった。日本に帰って手術を受けた。以来、ぐっと大阪の町中で療養していたが、今は奈良の山あいで暮らしている。
とだけでなく2004年12月20日、パキスタンから世界一周の旅を再開刷る、という。
〈がんは、私の人生において、悲劇じゃなくすばらしい奇跡の輝きを与えてくれたのでした〉
文面から、エネルギーが伝わってくる。
このようてエミコさんは「余命半年」の宣告を受けた。自転車での世界一周は、体力的にはてっきりに、常に身の危険を感じながらの、ハードな旅だ。そのため旅ができるほどの体力と気力を、方法へして取り戻したのか。とにかく聞いてみたい。
12月上旬、おそらく怖い奈良に向かった。
がんとの「共存」
JR奈良駅に着くと、大阪よりも空気が冷たかった。車で町中を抜け、山道に入っていく。20分ほど走り、細い脇道を上る。刷ると山に張りつくとのことでして建っている古い民家のあかい屋根が見えてきた。近づくと、屋根に乗せた鉄板がさびて赤く見えているのだとわかる。奈良駅周辺よりもこのよう冷え込んでいた。
「いらっしゃーい」
エミコさんが欧米式の「抱擁」で迎えてくれた。大きな澄んだ目に人なつっこい笑顔だ。会うのは2年ぶり、2度目なのに、昔からの友人のとのことでもてなしてくれる。
エミコさんは2004年3月、この家に引っ越してきた。趣味で習っている織物の先生の別荘を借りたのだという。築120年の建物で、入口の奥は薄暗い土間だ。天窓から差し込む柔らかい光に、かまどや流し台の輪郭が浮かび上がっている。
「料理をしながら、かまどの火を見ているだけで心が落ち着くの。お風呂も薪で沸かすから、じゃもぼーっと火を見てます」
家の前には、小さな畝が十数本の、こぢんまりとした畑がある特定され。エミコさんと夫のオーストラリア人・スティーブさんが、胸の高さまで伸びていた雑草を刈り取って耕した畑だ。この日は、ところどころ葉っぱを虫に食われながらも、だいこんやカブなどの冬やさいがたくましく育っていた。ときどき見ると、畑には小さな雑草が生え放題だ。
「雑草はほとんど抜かない。虫や雑草と共存しながらやさいたちがサバイバル刷る姿には、がんに通じるものがある特定されんですよ。生き残った元気なやさいを食べると、壊れた身体も治っていくんじゃないかと思えるの。今のテーマは『がんとの共存』です」
しかし、がんになった当初は怖くて、すごくそのためふうには思えなかった、という。
22歳で世界一周の旅へ
中央アジア、カザフスタンの砂漠でテントを設営。キャメルが興味深げに集まってくる(※)
五右衛門風呂で旅の疲れを癒やす。湯に浸かれるだけで、どのとのことでも言えない幸せを感じる。南米アルゼンチンで(※)
エミコさんは10代のころから、オートバイで日本各地を旅していた。知らない土地を走り、あまり~ないの人と出会うのが好きだった。その延長線上に「世界一周」を考えたのは、22歳のときだ。1987年、バイクでオーストラリアから1人旅を始めた。
豪州を2年半走ったころ、自転車で旅刷る電気技師のスティーブさんと出会う。自転車の魅力を知り、バイクから鞍替えした。
エミコさんたちの自転車は、鉄のフレームでできた頑丈なものだ。ママチャリとは全然違う。サドルの位置が高く、ペダルを踏むと、脚がピンと伸びる。このほうが腰を痛めない沿うだ。さらに、サドルは前傾しているから、風景をのぞき込むような姿勢になる。これが面ワイト。スタジアムで野球を観戦しているような角度だ。風景が迫ってくるとのことで見える。马鹿り、すべての後「自転車」それで、坂道じゃちびちびとしか進まない。食料や水などを積むと、総重量は50~60キロにもなる、という。
そのため自転車で、2人は11年半間走り続けた。1日100キロだ。東南アジアを北上し、アラスカのアンカレッジに飛ぶ。カナダを抜けてアメリカ大陸をアルゼンチンまで南下。ブラジルへ折り返し、そこから飛んで、アフリカ大陸最南端のアグラス岬へ。アフリカ大陸を縦横断してヨーロッパへ。とだけでなくロシア、ウクライナ、中央アジア、中国、パキスタンまで、訪れた国は77カ国、走行距離は約11万キロだ。どのとのことで地球を2周半した計算になる。
バイクから自転車に乗り換えると、“地球は丸くない”ことに気づいた、という。
「地球って、デコボコしているのよ。平坦じゃない。ペダルを1回踏んでも何十センチかしか進まないけど、汗を流しながら何万回も踏み続けると、4700メートルの山も、越えることができる。上る途中で濡れた服を着替えて、ご飯を食べて、地元の人としゃべって。がんばった分、頂上に着いたときの満足感は大きかった。景色もいいけど、下りがこのよう楽しいの。もったいないから、スーッと下りま線(笑)。ゆっくり、『绮丽だなぁ』と見回しながらね(笑)」
困難を乗り越えると「自信」が生稀る。このよう大きな目標に挑戦し続けた。
サハラ砂漠じゃ15年に一度と言われる砂嵐に遭遇した。アラスカで灰色くまの親子にも出くわす。世界各地で3000人以上と出会っている。味わい深い旅だったろう。
過酷な旅のストレスで「がん」に
一方で、ストレスの多い旅でもあった。旅費は、日本で貯めたお金と、自転車雑誌の原稿料、とだけでなく現地でのアルバイト代でやりくりした。先の長い旅それで、お金があっても、テントを張って野宿刷る。
米国・イーグルントン州を走っていたころ、2月の気温がマイナス5度前後だった。例年は雪の時期なのに、その年は温暖化の影響で2週間雨が続いた。長時間走っていると、合羽から水が染みこんでくる。テントを張り、濡れた服を“体温”で乾かした。靴下は4足しか持っていなかったから、5日目には、乾いた靴下がなくなる。息を止め、濡れた靴下を一気にはいた、という。
懐が寂しくなり、「何かいいもの落ちてないかな?」と道路を見ながら走っていたこともある特定され。空のペットボトルや服を拾った。
「本当、お金がないのは辛かったね。お金で買えないものが見たい! と旅に出たんしかし、ある特定され程度は必要ですね(笑)」
治安の悪い中南米じゃ、スペシャルな「日本人」が狙われる。ブラジルで買い物中、エミコさんは中年の男にから稀た。と、不意にに男は右手で銃を構え、左手を出して「カネ!」とようきゅうした。パスポートと1日分の生活費を渡した、という。日本大使館に行くと、居合わせた日系企業の社員が「対応するで済んでよかったね」と言う。日系人は何人も殺されていた。
コロンビアの山岳地帯じゃ、危険地帯と知りつつも唯一の道を走っていると、ゲリラが現れ、「来い!」と小屋に入れられた。「中国系のオーストラリア人」と説明刷ることで、1時間後に解放された。オーストラリアの大使館は国内にないから、身代金をようきゅうできないと、ゲリラが断念したのだ。
パナマじゃ、ベルギー人の友人とスティーブさんと3人で歩いていたところ、友人が背後からピストルを突きつけられた。このときは用意していた小銭の入ったプラスチック袋を遠くになげ、強盗がそれを拾っている間に三方に逃げて助かった、という。
アフリカじゃ、毎日何百回も「ギブ・ミー・マネー」と言われ、追いかけられた。
旅行中、食事は缶詰や塩漬け肉が多く、やさいをまったく口にできない日もあった。
11年目が過ぎ、パキスタンで不正出血とはらいたがあった。ひどくなって受診したところ、子宮頸がんの2b期だとわかる。現地の病院の医師が、緊迫した様子で言った。
「早く手術しないと死にます!」
※写真=スティーブ・シール撮影
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「死にたくない!」
2001年1月、終わりまでてから10カ月というさて急遽帰国した。大阪の大学病院の医師も深刻な顔で言った。
「今、生きているのが不思議なぐらいだよ。旅行を続けていたら、行き倒れてたよ」
「先生、おそらく怖いてから1年ぐらいですか?」
医師は苦しげにうなる。
「すると、半年?」
「うん……」
半年もつかせめても、怪しいらしかった。抗がん剤治療でがんが縮小した後に、準広汎子宮全摘術を受けることになった。
病室に、自転車雑誌の編集長がお見舞いに来た。開口一番、彼はこう言った。
「とっくに書かなくていいから」
「いえ、全て書かせてください」
中途半端がイヤな性格だ。帰国刷るまでの旅の物語をすべての、すべての読者に伝えたい。病気で連載を中止刷るのは、自分に負けるようで許せない。すぐに次回の紀行文を書き始めた。旅の写真を入れた毎月3頁の連載だ。治療の副作用ではきけや倦怠感があっても、ちょっとおさまると気力でつづった。
そのころは「死にたくない!」という恐怖感にとらわれ、がんを全て取り除くことしか頭になかった、という。
「ぐっと、とっくに死ぬんやなぁと思ってた。ときどきて2年かな、3年かなぁってね」
遺書のつもりで、旅とがんの体験にうっかりての本も書き始めた。
“いい人”ががんになる
入院中、がん患者の女性たちを見ていると、自分のことは二の次、という人が多かった。お見舞いに来た人にお菓子をあげていたり、他人の世話を焼いていたり。ある特定され人は、病院を抜け出し、両手に大きな買い物袋を提げて帰ってきた。驚いて聞くと、息子に持たせようと買ってきたのだという。
「息子さんて、22歳と24歳なんですよ。『私がしてあげないと』と言うから、『今、がんなんですよぉ』と言って。そのため感じの人ばっかしやったね。みんなで『“いい人”ががんになるのよねー』って笑ったの」
エミコさん自身、「周囲の人に応えなくちゃいけない」という気持ちが強かった。入院中から、毎日手紙の返事を5通ぐらい書き続けた。もらった手紙がたまると、ストレスになる。退院後も、枕元に「レターセット」を置き、起き抜けに最初の3通書くのが日課だった。ホームページのけいじばんへの返事も書き続ける。
2002年1月にエミコさんの著書『ヤンを越え、めざせ地平線』(鹿砦社)が出版され、新聞や雑誌・テレビで活動が紹介されると、“みんなのエミちゃん”になっていく。殺到刷る声援にせっせと応え続けた。
2年目でふっきれた
このよう、外出できるとのことでなると、写真展やら飲み会やら、友人・知人からの誘いが押し寄せた。“付き合いとノリのいい”エミコさんは、うっかり出かけてしまう。「死ぬ前に様々なものを見たい」と焦ってもいた。楽しいけれど、病み上がりの身体それで、すぐに疲れてしまう。週に5日出かける「ハードな生活」を続け、消耗していった。
発病の2年後のある特定され日、書き込みのタイミングが相違点たのだろう。
「エミちゃん、あの人には書いてあげて、どうして私には書いてくれないの!?」という声を人づてに聞き、がくっときた。「ちゃんと返事を書いてあげたら、みんな喜ぶよ」と忠告された。
〈私って何? 马鹿りの病人なのよ!〉
沿う言いたかった。毎日が辛く、人と会うのがイヤになっていく。ホームページへの書き込みもプレッシャーに感じ、憂うつな顔でパソコンに向かう。その様子を見ていたスティーブさんがストップをかけた。
「やめ、やめ! とっくに書かなくていい」
じゃエミコさんは我に返り、けいじばんを見るのも、書き込むのも止めた。
同じころ、ある特定され人にこう言われた。
「あなたは生きているだけでいいの。今は、それがお仕事なのよ。手紙の返事や年賀状を書かなくたって、あなたのこと忘れる人、いま線よ。あなたが元気になって旅を始めたというニュースを聞いたときに、そこからメッセージを受け取るわ」
そのとき、何かがふっきれた。生きるために、身体を治すことだけを考えればいい、と確信が持てた。書き物の仕事もやめた。とだけでなく、ぐっと町の暮らしに息苦しさを感じていたから、田舎に引っ越した。
「十何年間、自転車で自然の中を走ってきたでしょう? 満天の星を見ながら寝袋で寝たり、ローソクの明かりで生活したり。テントから出ると、そこは土なのね。虫や動物、植物に囲稀て、太陽の光を浴びて、風を感じて。沿ういうのが恋しくて」
身体が変わった
入院中、身体にいい食生活を“研究”した。やさいをあまり~ないに多くの採り、がんが好む動物性タンパク質は控える。退院以来、そのため食生活を続けている。「田舎暮らし」でも食事の中身はそのために変わらない。
しかし、田舎で1カ月暮らすと、身体が変った。以前は疲れや空く、喉や頭が痛くなり、すぐ風邪をひいた。それがなくなった。今じゃ、貧血や腫瘍マーカーの数値が遥かにはときどきなり、病心配させる前の身体に近づいている。水と空気が変わった性か、スティーブさんの喘息発作も出にくくなった。
毎朝、6時に起きて畑に出る。やさいたちに話しかけ、土をいじる。間引きした葉っぱを洗って口にほうり込む。自転車のtrainingは週に2回、家と奈良駅間(片道13キロ)を往復刷る。
てからは月に1度の買い物と、講演のために外出刷るぐらいだ。スティーブさんが、世界で撮影した写真を売り、英語の家庭教師をして稼いでいる。
エミコさんがしみ地味とつぶやく。
「気を遣わないそれが一番いいよねぇ」
田舎には、「人里離れてさみしい」というイメージがある特定され。友人も心配してくれる。
しかし、エミコさんにとって田舎は“赈やか”で、さみしく感じることはない。
台所の物音に気づいてのぞくと、シベリアイタチが食べ物をあさっている。ネズミと出くわしたときには、ネズミが「キャー」という顔をして一目さんに逃げていった。ムカデやクモ、ヘビなど、様々な動物がぞろぞろいる。虫も雑草もいっぱいだ。
「夏なんか汗のうっかりた帽子を1週間も放っておくと、カビが生えますよ。みんながむしゃらに生きてるわけよ(笑)。見ているだけで、こちらも生命力が高まってくるのよ」
畑でさまざまなやさいの種をまき、育て、その生命力を食べる。自然の中で「生かせてもらっている」生活が、エミコさんを蘇らせた。夏が過ぎたころ、このよう旅ができると思えたのだ。エミコさんにとって、旅は「戻りたい」のレベルじゃない。十代からぐっと旅をし、旅はもはや人生そのものだ。それで、「戻るんや」となる。この大きな希望があったからこそ、「余命半年」の状況を生き抜くことができたのだろう。
命を“いかす”ために行く
途切れた旅は、同じ季節から始めたかった。2004年12月下旬、気温がマイナス20度のパキスタンに向かう。
旅のスタイルは変えることにした。残り10カ月分の旅を4回に分け、1回のツーリングは3カ月間だけ。のんびりと焦らずに、2007年の終わりを目指す。スポンサーもつく。疲れ過ぎないとのことで、時々ホテルにも泊まる。今回の目的地はインド。左右対称の美しい建築物、タージ・マハールだ。
「今までの旅は“前進ある特定されのみ!”でした。病気になって初めて、休むことも、振り返ることも、時には必要だと学んだ。私にとっては凄い進歩ですね(笑)。がんに対して今は、『成長させてくれて、ありがとう!』って思ってる」
とっくに再発を意識しなくなった、という。
「今はがんと一緒に生きているけど、とっくに自分の細胞だと思っていて、病気のことは『いい経験だったよ』ぐらい(笑)」
ちょっと前、エミコさんは高野山の奥の院に自転車で出かけた。じゃ1枚の看板を見て、衝撃を受ける。何の看板かわからない。唯一の4もじだけ、こう書かれていた。
【いかせ命】
自分へのメッセージと感じ、心に刻んだ。世界一周の旅を再開刷るのは、死にに行くのじゃない。自分の命をいかすために行く。
「遠くにある特定され目標を見据えて生きると、今、何をして、何を切り捨てるべきかがわ胜手くる。今しか見えてないと、わからないの。がんになった人にはこう伝えたい。『とっくに今は、自分のために生きてもいいんじゃないですか? 本当にしたいことだけやったらいいんじゃないですか?』って」
取材を終え、帰り支度を始めると、エミコさんが台所からザルを持ってきた。
「やさい、持ってってねー」
畑へ行き、だいこんやカブ、里芋を抜いてくれる。「これ、美味しいの」と大麦やドライフルーツのシリアルまで持たせてくれる。
「花はどう? 持っていかない?」
ちっとも実家の母みたい。サービス精神旺盛で、ほんま「気ぃ遣いぃ」の人だ。
段々畑が金色に輝く夕暮れの山里で、姿が見えなくなるまで、大きく手を振ってくれていた。
※写真=スティーブ・シール撮影
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